捨身飼虎




こんなことばかりしていると本当に死んでしまうよ、と私は言い、皮膚を縫い付けたばかりの彼の腕を包帯で覆った。たんに激痛、というだけの言葉では済まないであろう痛みをどういうわけか涼しい顔で受けながら、冨岡少年は私ごときの苦言などまるで聞こえない様子で、唇を一文字に引き結んだまま黙って目を閉じている。斜め俯く横顔は怜悧で、ただときどき本当にかすかな、獣の唸りのような細かい喉の震えが伝わって、それがやせ我慢であることを私に伝えた。

十ほども年下の、出会った頃から寡黙なこの少年は、私の勤める診療所の常連で、毎度詰襟に奇妙な羽織かけて日本刀を帯びた、側から見るとぎょっとする出で立ちをしている。おまけに毎度生き物の咬み傷か引っ掻き傷のような、治りにくい裂傷を引き下げて血塗れの体で診療所の門を潜るので、同僚たちの間ではそれなりに話題になる子である。

うちは精神科であるから裂傷は専門外なのだけれど、診療所の大黒柱たる老先生は詰襟に帯刀をしたひとびとが訪ねてきた際はどのような症例であろうとも必ず受け入れて手厚くもてなし親切にするようにと看護婦に固く言いつけているのだった。私がこの診療所に勤めることになったとき、老先生は診療所の扉にかけた暖簾に染め抜かれた藤の紋様を指差して、この花はその約束の証なんだよ、とよくわからないことを言って笑った。私にはサッパリ意味はわからないのであるけれど、詳しくはあまり聞かない方がよい、と婦長は言う。わからないなりに行間を読むと、彼らは害獣の駆除のようなことをしているらしい、と想像できるのだけれど、同じ装束に身を包む人々は冨岡少年をはじめあまりに悲壮な顔つきの若者ばかりで、まるで戦争帰りと言った風情であるからして、多分余程かなしく過酷な仕事なのだろう。

お大事に、と言って巻き終えた包帯を軽く撫でると、冨岡少年ははあ、と硬い溜息を口から吐いて、小さく頷いた。肩から背中にかけて鋭利な爪で引き裂かれたような、大きな傷であった。熊と鉢合わせたにしたってこんな奇妙な傷にはならないだろう。衛生状態も褒められたものではなく、今夜は熱を出すことが予想された。一体貴方は何を生業にしているのかな、と聞きそうになる口を結んで、処置室を出て行こうとする冨岡少年の、無傷のほうの腕を掴む。反射的に振り返って、睫毛の濃い美しい形の双眸が私を虚に睨む。暗い青色の瞳は熱を孕みはじめて濁っていた。

「……まだ何か」
「今晩は冨岡くんは入院です。今夜は熱が出るでしょうから」
努めて明るく告げると、冨岡少年は瞬きもせずに首を横に振った。
「そんな暇はない。失礼させていただく」
「先生の診断です」
「次の仕事があるので」

焦っているのか、早口の拒否理由をいくつも並べる、その舌は呂律は回らなくなりはじめている。年齢に見合わないほど鍛え抜かれた身体だったが、押せば簡単に病室に足が動いた。顔に出ていないだけで、どうも相当に具合が悪いらしかった。顔に出ない子だ。私はいささか呆れながら、冨岡少年を個室のベッドに押し込み、上から布団をかけた。起き上がろうとする男の肩を押して寝台に縫い止める。

「ほらいい子だから。頭痛がするでしょう?眠りましょうね、はい。安静に」
「俺は健康です。離してくれ、今夜のうちに移動しなくてはならない」
「きっと明日には良くなっていますよ。安静にしてください。寝て起きたらね。お休みしないと化膿してしまいます。死にますよ本当に」

暖簾に腕押しの返答に、冨岡少年はどうにもならないことを悟ったのか、珍しく絶望的な顔をして懇願のような声を出した。

「……だめだ。今でなくてはだめなんだ。もう行かなくては、間に合わない……頼むから……」
まるでこの世の終わりのように暫く呻いていたけれど、結局、彼は意識を失い、そのまま寝台に倒れ込んだ。揉み合う私たちを見た老先生が奥から出てきて、腕に麻酔を打ったためである。
「悲壮ですね」

私が呆れて言うと、老先生は悲しそうにそうだね、と笑った。あどけない寝顔は年齢どおりの少年のそれで、私は故郷に置いてきた弟の面影を思い出していた。私の弟であるから、もちろんこんなにきれいな顔をしていないが、弟、という人種はみんな、こういう面差をしているもので、なんとなくわかるのだった。

冨岡少年にお姉さんがいたら、きっと無茶ばかりするこの男の子の事を、とても心配していることだろう。



病室から大きな音がしたのよ。一緒に夜勤に入っていた同僚がそんなことを言いに来て、私は渋々羽織をかけて仮眠用の部屋を出た。糸でできたような三日月の、冴え冴えとした白さが窓の外に輝いて、美しい夜であった。どろりとした眠気が身体に纏わりつくようだったが、同僚がしきりに怖がるのでしかたがない。私は提灯に蝋燭を立てて暗い診療所の廊下を通り、冨岡少年の眠る病室の扉を開けた。カーテンを閉めるのを忘れていたらしく、窓から月と星のこまやかな光が差し込んで、病室を白く照らしていた。

あれほど安静にと言った冨岡少年は、寝台から転げ落ちて、床に蹲って呻いていた。私は頭痛を感じながら、提灯を小机に置き、屈んで冨岡少年の顔を覗き込む。彼は焦点の合わない瞳を大きく見開いて、狼狽した様子で包帯に覆われた腕を振り回し、もがくようにして立ち上がることを試みていた。麻酔が効きすぎたのか、力の入らない足腰に困惑している様子である。私は少年の腕をとり肩にかけて、ゆっくりと立ち上がった。重かった。筋肉のついた男の身体。よろめくのは鍛え上げられた筋肉に覆われた、それでもまだ子供の腕だ。彼をとりまく何もかもが彼に不釣り合いに見えた。

「行かなければ」
と少年は言った。譫言だ。触れた指先が熱い。熱があるのだろう。
「だめです。本当に死んでしまう」
「死んだっていい」
冨岡少年は食いかかるように必死の形相で私の語尾に言葉を重ねた。
大きな目から滴が流れ落ちて、顎をつたって、雨のように床に落ちる。神経を引っ掻くように痛切な涙声が、静かな部屋に響いた。姉さん。悲しそうに、慕わしそうにそう呼んで、堰を切ったように彼は慟哭した。



姉さん、サビト、みんな、間に合わなくてごめん。ごめん。俺がやるから。サビトの分までおれが、おれがやるから。やらなくてはいけないのに。いつも間に合わない。ごめん。どうして間に合わないんだ。サビトならこんなみっともない怪我はしなかった。サビトならきっと昨日も間に合ったのに。サビトがいれば姉さんも死なずに済んだのに。サビトなら無惨を斬れたのに。おれなどの命を救って、サビトはどうして死んでしまったんだろう。俺は、昨日も間に合わなかった。母を食われた子供はこれからどうやって生きていくんだ。俺が遅いばかりに、俺が弱いばかりに、俺ばかりが、俺だけが助かってみんな死んでしまう。はやく行かなくては。行かないと、眠らずに歩かなければまた間に合わない。誰も死なないでくれ。もう嫌なんだ。もう嫌だ。俺が死ぬよりもずっと嫌だ。俺がやる。俺が、サビトの分までおれがやるから。もうこんなことはたくさんなんだ。姉さんごめん。サビトごめん。ごめん。みんなごめん。間に合わなくて、助けてやれなくて、本当にごめん。

「そ、」


それは君のせいじゃないよ、と私は咄嗟に言った。あまりに間抜けな台詞で、夜の深い闇にぽつんと落ちて、いつまでも違和感だけが残るような、ひどい失言であるように思われた。幸いにも冨岡少年の耳には入らなかったようで、闇に濡れた瞳はボロボロと涙を落としながら慈雨のように布団を濡らし続けている。 私が役にたたずに黙って突っ立っていると、音もなくやってきていた老先生が、泣き続ける冨岡少年の腕に注射針を突き立てて、不釣り合いに優しく笑いかけた。

「義勇くん」

冨岡少年は涙でぼろぼろになった双眸でゆっくりと老先生を見た。老先生は注射針を抜いて私に渡すと、そのままの掌で冨岡少年の背中を撫でて微笑む。
「お館様にはご連絡をしてあるからね。君のいくはずだった任務には炎柱様が行かれている。だからみんな助かるんだよ。大丈夫だ。君はゆっくり休みなさい。そうしてまた明日から多くの人を助けてあげるんだよ、君は強い剣士なのだからね。義勇くん」 老先生は穏やかに語りかけているうちに、急速にうつろになった冨岡少年のおもたげな切れ長のまぶたがゆらりと落ちて、上体が傾くのを、老先生がそっとささえた。

「この子は鬼狩りをしているんだよ」
と老先生は冨岡少年に布団をかけて、私に説明した。
「オニガリ?」
「そう。人を食う鬼を斬る仕事だ。」
そんな桃太郎じゃあるまいに。私が言うと、老先生は神妙な顔をする。
「彼は鬼に殺されたお姉さんがいるそうだよ、生きていたら君と同じ歳の頃なんじゃないかな」

ほら、手でも握ってあげたらどうだい。先生が指をさした先に、冨岡少年の右手が半端に握られて、蝋でできた細工のように白く固まっている。私はそれを暫く眺めて、首を横に振った。


俺がやるから。サビトのぶんまで俺が。おびえて痛んで傷ついた、でも決して揺らがない絶望の瞳。

「やめておきます」
「冷たいねえ」
「いいえ、やさしさです。だってこの子、そんな簡単に救われたいわけじゃあないように見える」