「こんな話知ってる?」


と三次郎がいきなり言ったので、私は困惑しながらも一応、立ち上がらずに彼の話を聞いた。


「昔々の話なんだけどね。若い僧がいたんだ。修行の旅に出ていてね。彼は敬虔なお坊さんだったんだけど、旅の途中雨宿りに使った宿で若い女に出会うんだ。綺麗な女だよ。色が白くって、黒い髪が豊かでね。人間じゃないみたいに、美しかった。僧は縁側に座って雨止みを待っていた。するとその女がね、宿の門からすっと入ってきてね、僧の前に立って言うんだ。『雨宿りをさせてもらえませんか』ってさ。僧はあんまり女が美しいんで、女人との関わりを禁ずなんて戒律はすっかり忘れちゃってさ、いいですよって答えちゃったんだ。そしたら女は男の隣にはんなり座って、二人は一緒に雨を眺めた。僧は夢見心地だったろう。だってうんと小さな頃から寺にいて、女とのかかわりなんか殆どなかったんだからね。日が暮れかけても雨は止まなかった。女は部屋に入れてくれないかと頼んだ。それはまずいと僧は思ったよ。だってお坊さんだから、女の人と同衾ってわけにいかないでしょ。僧はいい人だったから、宿の人間に頼んで、自分のお金で女を別の部屋に泊めてもらえるよう頼んであげることにした。でもね、僧がそのことを伝えると女は眉を寄せて、すごく不機嫌そうな顔をしたんだよ。僧は何でだろう、と思った。だけど聞く間もなく、女は立ち上がって『晦の夜に迎えに来ます』と言い残して雨の中を去っていったんだ。そのとき僧は気づいたんだね、女が雨の中を歩いていてもまったくぬれていないことに。


僧は暫く旅を続けたんだけど、晦が近づくにつれて怖くなってね。女が来るんじゃないかって。それで急いで寺に帰って和尚さんに相談したんだ。和尚さんは僧を見るなりこれはまずいという顔をした。呪いにまとわりつかれてるって和尚さんは言った。それからその呪い、まあ女の執念だね。それを解くためにはとくべつな方法を取らなければならないと説明したんだ。その方法っていうのがね、一つ目が、晦の日、日暮れの前に山にあるお堂にひとりきりで入ること。二つ目が女を恐れないこと。三つ目が返事をしないこと。四つ目が夜が明けるまで絶対に扉を開けないこと。


僧は和尚さんの言うとおりにしたよ。晦の日、日暮れの前に彼はひとりきりでお堂に入った。夜が明けたら呼びにくるからと和尚さんは言った。僧は頷いて、一人お堂の中に座っていた。恐れないこと、声を出さないこと、それが取り敢えずの至上命令だ。日が暮れて、お堂の中は真っ暗になった。月の明かりもないよ。晦だからね。暫くするとお堂の外から扉を叩く音が聞こえた。どんどん。『もしもし』と女の声が言った。僧は暫くは違うことを考えることができた。口の中で声を出さずにお経を唱えたりしてね。でも女はずーっと扉を叩き続けて、ずーっと同じ声の調子で『もしもし』って繰り返した。僧は段々怖くなった。当然だよね。ひとりで山の中で、真っ暗なお堂に入れられて、得体の知れないものがずっと扉を叩き続けてるときに、怖くない人間なんかいるもんか。僕だってそんな目に絶対あいたくないよ。


僧の緊張がピークに達した頃、外から和尚さんの声が聞こえたんだ。『おい、開けなさい』ってね。で、僧は安心して扉を開けかけて、気づいたんだ。まだ夜だったことに。あれは和尚さんじゃない。女が言ってるんだ。僧は扉から後ずさりではなれて壁に手をついた。ばんばんって音がしてね。『おい、開けなさい』って何度も何度も。僧はもう怖くて怖くて仕方なくなって、耳をふさいで床に突っ伏して叫んだ。お前は和尚さんじゃない!消えろ!わたしが何をしたというんだ!そんな感じでさ。すると不思議なことに外は静かになったんだね。僧は暫く固まっていたけれど、無限の闇の終りを感じた。胸をなでおろした。すると扉の隙間から光が差してね。彼は朝だ!と思って勢いよく扉を開けた。


そこには女がいた。まだ夜だったんだ。


光は幻だったんだよ。わかる?僧が禁を破るたびに女の力は強大になっていくんだ。


それでさ、は返事しちゃったよね?怖がっちゃだめだよ、朝がわからなくなるから。それに開けるのは絶対ダメ。外にいるのは庄ちゃんじゃない」


どんどん、どんどん。開けてよ、おーい。


「まったく、あんまり不用意に誰かに優しくしちゃダメだよ」
「・・・・・はい。」





(扉を開けてはいけません/夢前三次郎)