実家のある漁村には妙な決まりごとがあった。海辺の近くでかくれんぼをしてはいけないというのだ。海辺が危ないから遊ぶなというのならまだわかるのだが、何故だかかくれんぼ以外のことは禁止されていない。しかしこの手の奇妙な約束事は故郷には山ほどあって、子供ながらに一々意味を考えるのも面倒だったから、同郷の子供たちは皆特に逆らうこともなく、黙ってそれに従った。俺たちは、かくれんぼに誂え向きの、入組んだ岩場の海辺で、けしてその遊びをしなかった。だから禁を破ったのは地元の人間ではない。

その年の春、突然見知らぬ家族がどこからともなく村にやってきて、村のはずれの小さな廃屋をどうにか直し、そこで暮らすようになった。俺は母が食料を持ってその家を訪ねるのに同行した。余所から人が来ることも珍しいのに、まして村に住着くなんて、考えられないことだった。俺は興味深く思って、母親の後ろから、襤褸屋の様子を観察した。今思えば俺の家も相当な貧しさだったが、その家と比べれば随分マシだっただろう。見た限り、中には何も無かった。土間に筵を敷いただけの粗末な空間。雨漏りの修理すらまともになされていないようだった。一家には父親がおらず、母と姉妹が二人だけで、男手もなくどうしようもなかったのだろう。気の毒だと幼心にも思った。帰り道、母は俺に言った。悪いことを言う人もいるだろうけれど、どうか助けてあげなさいね、と。



一家の事情を俺は今も知らない。ただ当時大人が話しているのを盗み聞いた限りでは、京のほうから落ち延びた名のある武家の妻と娘たちであった、らしい。姉妹の父親が長老の恩人云々と聞いたような気がする。定かではない。しかし都から来たときいてさもありなんと俺は思った。姉妹の姉のほうが田舎の村に水が合わなかったらしく、暇さえあれば愚痴をこぼし文句を言ったからだ。余所者と蔑んでいた子供たちはそれに激怒し、同情的だった奴らもやがては離れた。そうして姉妹はあっというまに村から孤立してしまった。気の毒なのは妹のほうだった。姉とは違いよく気の付く気立てのいい子供だったが、姉が余りに勝気なので完全に巻き添えを食らってしまったのだ。



正直なところ関るのは面倒だったが、俺は母の言葉を覚えていたので、妹のほうとは偶に遊んだ。名前はといって、俺と同年だった。姉はいつも家にこもって母親にくっついていると彼女は言った。悪い人じゃないんだけど、ごめんね。そう言って笑った頬は驚くほど白く、俺に異郷を思わせた。は綺麗な子供だった。そしてその母と姉も。それがこの村の人間たちの不興を買う原因のひとつだと、俺は薄々気づいていた。



の一家が越してきて三月が経った頃、姉妹の母親が旅装束でどこかへ出かけた。母親が出て行ったあと、廃屋のような家の傍で姉が号泣するのをは辛抱強く慰めていた。外であそびましょうよ、と言って姉の手をぐっと握って。俺は傍目でそれを見ながらどっちが年嵩かわかったもんじゃないなと思った。漸く泣き止んだ姉は俺の軽蔑に気づいたのか、つり気味の目をぐっと寄せて、俺を睨んだ。あいつがいるなら遊ばない。とよく通る声で女は言った。は慌てて姉をとりなそうとしたが、俺は頭にくるより先にあきれてしまって、じゃあ帰るよと言い捨てて踵を返した。後ろでの謝罪と姉の畳み掛けるような声が聞こえた。



「かくれんぼしましょう、。あっちの岩場で」



俺は一瞬立ち止まった。しかしなんとなく忠告してやるのも癪で、そのまま振り返らずに歩き出した。は困惑と安心の中間のような溜息を吐いて、どうやら了承したらしかった。俺は一旦家に帰った。そしてあの性の悪い姉のことを考え、のことを考え、姉のことを考え、またのことを考えて、結局二人を止めにいこうと決めた。母の言いつけも思い出されたし、それに、俺はのことをなんだかんだで気に入っていたのだ。



しかし、俺が家を出ると、外にひとつ上のガキ大将と取り巻き立っていた。三郎次、お前あいつらを止めに行くんだろう、とそいつは言った。俺はそうだと返した。するとそいつはにやりと下品な笑いを浮かべて俺の手を掴み、こう言った。



「やめろよ。よそ者がどうなるのか見てやろうぜ」



了承しなければ殴られるだろう。一瞬、逡巡した。しかし、今殴られることとがいなくなることを天秤にかけてみると、俺は矢張りがいなくなるのことのほうが、嫌だったのだ。歯を食いしばってそいつをにらみつけた。



「嫌だね。はなせよ」




ひととおり殴り合いが済んでから俺は海辺に向かって走った。フジツボがびっしりと繁殖している岩場をすべるように降りてを呼ぶ。「!どこだよ!」すると岩場の陰から、はひょっこりと顔を出した。「三郎次、」強張っていた顔が安心したように緩む。それから俺の頬が腫れているのに気づいたのだろう、白い手が顔に向かって伸ばされた。陶器のような色で、触るととても冷たかった。



「大丈夫?どうしたの?これ」
「別になんでもない。帰るぞ、ここでかくれんぼは禁止なんだよ」
「え、そうなの」
「あいつは?」
「姉さんは今隠れてるの・・・早く探さなきゃ」

は焦って左右を見回した。俺はの手をとって滑らないよう慎重に歩き出した。歩きながら、さっきは本当にごめんなさいと詫びた。

俺は答えなかった。向こうにの姉を見つけたからだった。俺は背筋が凍りつくような寒気を感じて、咄嗟にを抱えるようにして岩陰にしゃがんだ。が驚いて声をあげそうになるのを、口を押さえて止めた。黙ってろとささやくと、は瞳に困惑の色を浮かべながらも頷いた。岩陰からほんの少しだけ顔を出して、俺たちはその光景を盗み見た。



の姉は岩に囲まれた砂浜に、時間を止められたかのように、両目を見開いたまま倒れていた。姉の身体の傍には、身なりのいい老婆が立っていた。俺もも見覚えは全くない人物だった。老婆は俺たちの目前で、懐から妙な模様の巾着を出して、姉の胸の隣りにひざをつき、横たわる身体の真ん中にいきなり手を突っ込んだ。は声にならない悲鳴をあげて、姉に向かって手を伸ばそうとしたが、俺が止めたのでどうしようもなかった。変わりにその手は俺の着物の袖をきつく掴んだ。老婆はの姉の身体から玉のようなものを取り出して巾着にいれた。そしてまた手を突っ込んで玉を出し、巾着に入れる。それを十回ぐらい繰り返して、老婆は巾着をしばって立ち上がった。の涙で俺の襟元は濡れていた。俺はの頭をぎゅっと引き寄せた。その瞬間に、老婆がこちらを見た。心臓が凍るかと俺は思った。老婆は俺をじっと見て、口を「ほ」の形に空けた。口の中がカラカラに乾いて気が遠くなるのを感じた。



「こらッ三郎次!」



父が後ろから俺を怒鳴りつけて呼んだのはその直後だった。俺はを抱いたまま後ろを振り返った。全身から汗が吹き出て胃が冷たくなった。吐きそうだった。



あのあと、が近づいて姉を呼ぶと、彼女は何事も無かったかのように普通に起き上がった。夢だったのだろうかと俺たちは思ったが、それから三日もしないうちに、の姉は痩せ衰えて衰弱し、死んでしまった。俺は姉の葬式のあとあの日見たことを父に伝えた。父は棒きれで砂の上に絵を描いた。老婆の持っていた巾着の絵だった。



「こんなの持っていたか?」



俺が無言で頷くと父はそうかと言ってどこかへ出掛けた。暫くすると父が長老とをつれてやってきた。長老は俺とにあの日のことをしつこく聞いた。そして話が終ると、とてもうれしそうに笑った。泣き出しそうなの頭を撫でて君たちのことは心配しなくていいと長老は言った。***様だ、家を出て行く長老の声がいつまでも耳の奥に残った。



の母親が帰ってきたのは上の娘が灰になってからだった。母親は気を病んでそれから一月せずに死んだ。は途方にくれていたが、長老が見舞金を出し、俺の家で暫く面倒を見るということで話が固まった。



が家に来て暫くして、学園からスカウトが来た。父は家計を理由に入学を断ろうとしたが学費は学園が負担してくれるという。うまい話だった。俺は父母に隠れて、も連れて行けるならかまわないと告げた。経緯を話すと使いの教師二人組は顔を見合わせ、学園長先生の御判断を仰ぐと言って一度帰った。二度目の来訪で俺との学園への入学が決まった。



この夏、故郷の村は不漁だったという。帰省の折、の姉が死んだ年は例年の五倍の漁獲量だったと、酔った村の大人がぼやいた。俺は、あのあとで村が矢鱈と富んだことを思い出した。は微笑して、不肖の姉でしたが皆様の役に立てたのなら本人も満足でしょうと返した。



(贄/池田三郎次)