山の中腹まで登ったところで、行き会った樵にこれから上は寺の敷地であると告げられた。何で樵が態々そんなことを言ったのかといえば、それは私が女であり、かの寺が女人禁制だったからである。私と黒木は顔を見合わせて深い溜息を吐いた。樵はその寺の門徒のようで、そもそもこの山に女が入っていること自体が癪に障るらしく、私たちには酷く冷淡たった。寺を通らずに山を越える抜け道などはないかなんてとても聞ける雰囲気ではない。完全なる徒労だ。

事前の調査不足を黒木は私に詫びたが、彼には多分そんなに落ち度がない。私にもない。何故なら調査などする暇を与えられた覚えがないからである。この山の向こうにある城のしるしを取れというわりあい過酷な実習に、人数不足を理由にくのいち教室から私が駆り出される事を知らされたのは、今日の明け方になってからだったのだ。あまりにも急すぎるし不公平であると私は思う。黒木は優秀だから問題はないとは組の連中は笑ったが私はあまり大丈夫ではない。私の貧相な双肩に彼の成績がかかっているのかと考えると気が重い、胃が痛い、と思った矢先に、このような足止めを食らう。やりきれない。

樵が去ったあと、うなだれる私に黒木は苦笑を漏らして少し休もうと言い、大樹の根元に腰を下ろした。気楽な動作だったが、気楽なはずもない。このままでは山を降りて迂回するしかないが、それでは時間が倍にかかるだろうし、期日に間に合うのかどうかも微妙である。黒木が落第の烙印を押されるのを想像して私はぶるりと背筋を震わせた。冗談ではない。私さえいなければ黒木は山を越えられたのに。しかし残念ながらどちらかがリタイアすれば両方が失格になるルールであった。私だけ置き去りになるわけにもいかないのだ。

私はいてもたってもいられず、黒木の座る大木を中点にして、その周りを暫くうろうろと歩き回った。めぼしいものなど何も無い。落ち葉を踏みしめる音が虚しく反響しただけだった。私は溜まらず頭を掻いて座り込んだ。

「もし」

いきなりか細い女性の声がして、私は驚いて振り返った。目の前に紫の絹の裾があった。寺の人間かと思い、慌てて立ち上がる。ちょうど私の肩と同じ高さの顔を見ると、それは酷く美しい尼僧であった。透けるような白い肌に黒々とした目、真っ赤な唇は瑞々しく、艶かしく、同性の私でも暫く見蕩れた。こんな美女が出家とはなんともったいないことだろうか。

「迷われましたか」

と尼僧は私に尋ねた。上品な声だった。私は誤魔化すように首を傾げながらいや、山を越える抜け道みたいなのありませんかね、返す。あったとしても知らないだろう、と思った。寺から出ることも少なかろう、知るはずがない。しかし、尼僧はしっとりと微笑んで、ございますよ、と私に言った。案内しましょうか。私は驚いたが、同時に喜んだ。よかったと思った。それで黒木を呼ぼうとした。彼はだいぶ遠くにある大木の根元に座っているはずだった。

しかし、彼は私が視線を投げた場所には既にいなかった。既に私の隣で私の腕をぎりぎりと掴んでいたのである。酷く冷たい目をしていた。私は驚いて、いきなりどうしたんだと私は尋ねた。黒木は、それには応えなかった。凍てつくような目を爛々と輝かせて黒木は尼僧を睨んだ。

「必要ない。触るな」

私に向かって伸ばされた彼女の手を振り切るように、黒木は私を横抱きにして地面を蹴った。信じられない速さだった。今や伝説と化した七松先輩もかくやという速度で彼は山を降りた。登りは私に合わせていたのだと気づいて赤面した。歴然とした実力の差と、横抱きにされているという状況、そのどちらもがいたく私の自尊心を傷つけた。羞恥に耐えられず途中で黒木の名前を呼ぼうとして、く、と言ったところで、黒木が私の唇を自分のそれで塞いだ。私はこんどこそ混乱が極致に達して麓の村に着くまでひとことも口が聞けなかった。生娘でもあるまいに恥ずかしいことである。

村に出ると、黒木は村人に請い、小さなお堂を一晩貸し切った。古臭いお堂のうっすらと埃の積もった床の上に降ろされて、放心していた私はのろのろと黒木を見上げた。彼はいつもどおりの飄々とした無表情のまま、ああいうときは名前を呼んじゃ駄目だよ、と言った。口付けは私に名を呼ばせないためにしたものだったらしい。はじめから他意のないことなどわかっていたのに落胆する自分が情けない。

しかし何故名前を呼んではいけないというのだろう、と私は思った。そもそも何故黒木は尼僧をふりきったのだろう、もしかしたらもっと早く城にたどり着けたかもしれなかったのに。正気にもどりかけた私がそう言ってぼやいたら、黒木は眉を寄せて、「はくのいち教室の主席だったっけ?」と、とてもそうは信じられませんという色を露骨ににじませながら呟いた。観察眼の鈍さは命取りだと彼は続ける。

「あのまま行ってたらは十中八九死んでいたと思うよ」
「・・・。いくらアホでもか細い尼さんに殺されるほどじゃないけど?」

ムキになって反論した私に向かって、黒木はついに疲労を隠さずに溜息を吐いた。

「バカだなあ。あれは尼なんかじゃないに決まってるじゃないか。上の寺は女人禁制なんだよ。なんで女がいるんだい」





(尼僧と森/黒木庄左ヱ門)