朝の満員電車なんか絶対に乗りたくないとリョーマは思っていたが、彼女が痴漢に遭ったというので仕方がない。見ず知らずのオヤジに自分の彼女の身体を触らせるなんて死ぬよりも嫌だ。見つけたら半殺しにしてやる。は普段は徒歩で通学していたが、雨の日は電車のほうが近いので電車を使う。痴漢の件を聞いて、濡れてもいいから歩けよ、と彼は思ったが、珍しく彼の部活も休みだったので、今日ぐらいは付き合ってやろうと思ったのであった。要するに気まぐれだ。恋人であるがまたそうとは思えないほどの腰の低さで散々恐縮したのも彼を酔狂にした理由のひとつである。天邪鬼なのだ。

リョーマは甲斐甲斐しくも徒歩で彼女の家まで向かい、そこから駅まで二人で歩いた。が通学に使う駅は普段の最寄駅とは違った。都心に出るための路線とは異なる、ローカル線なのだった。珍しいくらいに汚い駅で、ホームはひとつきりだった。全体的に狭苦しい印象を与える。駅に入るのために長くて急な階段を上らなければならないのだが、その入り口には大抵酔っ払いの吐瀉物の跡があった。注意深くよけながら階段を上って、彼らは切符を買った。改札を入ると、ホームに下りるための長い階段がある。上って降りるならはじめから平にしておけばいいのにとリョーマはぼやいた。横では苦笑を漏らした。

不意に、電車に乗ろうとする人並みにぶつかって、階段を下りんとするその瞬間、の体がぐらりと傾いた。リョーマは慌てて彼女を支えた。ぶつかった人間はさっさと人ごみのなかに消えていた。危ないところだった、こんなところで転んで落ちでもしたら洒落にならない、と思った瞬間、腕の中にいたが小さく、あ、と呟いた。リョーマもつられて彼女の視線の方向を向いた。

中年の男がいた。リュックサックを背負い、眼鏡をかけていた。男は、小走りで、人のごったがえす階段を下りようとしたが、三段目で足を滑らせて、うわああああ、と呻きながら、転げ落ちるように階段を走っていった。止まれなくなったのか。勿論そこには人が溢れていたから、彼は進みながらさまざまな人間を突き飛ばしていった。幸いなことに階段からは誰も落ちなかった。変わりに彼は電車をまつ人の列に飛び込んでしまった。きゃー、という悲鳴がこだました。何人かが線路に落ちた。は反射的に目を閉じた。リョーマは咄嗟に時計を確認した。8時10分、電車の到着時刻ちょうどだった。この駅の線路の中に人の逃げ込めるスペースはない。駄目かと思った一瞬、間の抜けたアナウンスが入った。『えー本日雨のため電車が10分少々遅れています。お客様には大変ご迷惑を・・・』

結局線路に落ちたサラリーマンと若い女性は駅員に助けられて事なきを得た。中年の男はいつのまにかいなくなっていた。二人は無言のまま電車に乗り、はリョーマの服のすそをぎゅっと掴んだ。その上からリョーマがの手を包むように握る。一部始終を見ていたのは恐らく二人だけだった。あのおじさん、おかしかったよねとは言った。リョーマは頷いた。おかしかった。三段目で足を滑らせた、その動作はどう見てもわざとだった。左足が滑ったようにみせていたけれど、右足はきちんと次の段を踏んでいたのだ。あれで止まれないなんて有り得ない、とリョーマは思った。それから更に奇妙なことに、中年の男は明らかに、列を選んで突っ込んでいたのだ。中年の男は階段の右から足を滑らせた。そして滑るようにして階段を駆け下りていった。しかし、突っ込んだ列は階段の左側、リョーマとの立っていた場所からちょうど一直線上にあった。彼は対角線を描いて列にぶつかったのである。対角線上に。そんなことあるだろうか。

電車は待たされたぶんだけ多くの人間が詰め込まれた。リョーマは背筋に寒いものを感じながら、まだ発車しないのかとイライラして、を自分に引き寄せる。ふと電車の窓の外を見るとさっきの中年の男がそこにいた。目が合った。リョーマとに向かって、絡みつくような視線を送っていた。


「・・・二度とこの駅使うなよ」





(プラットホームにて/越前リョーマ)