春休みだった。ぼくとはまだ付き合ってなかった。サエさんたちの進学先はみんな同じで、学校からもすごく近かったけれど、高校のほうの部活のことや、新しい生活にむけての準備もあるし、ぼくたちの練習を見に来てくれること少なくなっていた。ぼくは寂しかったけれど、どちらかと言えばいよいよ部長としての本領発揮だ、と張り切っている気持ちのほうが強かったと思う。いや、三年生の代わりに部活には来年入学してくる小学六年生の後輩たちが毎日来るようになって、寂しさを感じる暇もなかったというのが、一番正しいかもしれない。初めてのちゃんとした後輩たちはものすごくパワフルで、ぼくも去年こんなんだったのだろうかと思うと、信じられない気持ちになった。も同じことを言っていた。「去年、剣もこんなだったっけ?」自分たちのことはわからないものだ。

後輩たちの中には、それまで見たことのなかった男の子が一人いた。出身小は皆同じで、皆知り合いで、テニスに興味がある子は低学年のうちからちょくちょく練習を見に来るものだから、そういう子は珍しかった。その子は今年になって転校してきたのだと言った。涼しげな目元の子で、少しサエさんに似ていた。中学に入ったらきっともてるねとが言って、ぼくはなんだかとてもうらやましく思ったのを覚えている。テニスも巧かった。引っ越す前はテニスクラブに通っていたのだという。それに、何よりものすごい努力家だった。誰よりも一生懸命やっていた。オジイにラケットを作ってもらうと、ものすごく喜んで、練習には益々力が入っていた。ラケットは宝物で、毎日家でぴかぴかになるまで拭いて大事にしてると言っていた。「すごく手に馴染むんだ」とあの子は得意げに言った。

「あの子うまくなるね」
「うん」

の言葉にぼくは頷いた。負けてられないと思う気持ちと、来年からの生活への楽しみが、体の中で熱く燃えた。はあの子をかわいがっていた。ぼくもだ。みんなに好かれる子だった。転校生なのに、同級生の子供たちも、あの子には一目置いて、何かあるとすぐに相談していた。本当にサエさんみたいだった。



そうして春休みも終わりかけた頃だった。みんなが帰ってしまったあと、と二人残って後片付けをしていると、テニスコートの隅にラケットがひとつ落ちているのに気づいた。誰のだろうと思って拾い上げて、吃驚した。あの子のものだったからだ。隣りでも驚いた顔をした。具合がわるかったのかな、と心配そうに言った。だってあの子は誰よりもラケットを大事にしていたから、忘れていくなんて有り得ないと思ったのだ。ぼくは明日でいいだろうと言ったけれど、は断固として今日家に届けるといって、聞かなかった。今から走れば間に合うよ剣太郎。彼女はそう言ってにやりと笑った。ぼくは渋々頷いた。けれど、校門を出る頃には、お馴染みのプレッシャーをかけてノリノリで走ってた。「家に着く前に追いついたら、今週中に可愛い子に告白される!」は笑った。「いーねそれ!バカみたい!」

あの子の家は少し遠くにあった。学校が始まったら自転車を使えないから大変だねと話をしたことがある。ぼくとは交差点を抜け、歩道橋をわたり、大通りを爆走した。はマネージャーでテニスこそしなかったけれど、ぼくたちの練習に混じってよく走っていたから、体力もあるし足も速かった。

大通りの突き当たりで、自転車に乗って信号を待つあの子を見つけた。ぼくは思わずガッツポーズをした。「やったね!告白だ!」が少し後ろで息をきらしながら、「ばかじゃないの、」と呻くのが聞こえた。そうしてはあの子の名前を呼んだ。続けてぼくも大声で、おーい、と呼びかける。あの子は振り返った。信号は赤になった。ぼくたちはぜえぜえ言いながら、あの子の前にたどり着いた。あの子は、自転車から降りて、小さく首をかしげていた。が手に持ったラケットを差し出して、真っ赤な顔で、「忘れ物だよ」と言って笑った。

あの子は差し出されたラケットをじっと見た。被っていた帽子が白かった。逆光で顔がよく見えなかった。そして彼はラケットには触らず、上を向いて、「ちゃんにあげる」と言った。意味がわからなかった。が固まった。ぼくは、え、と思わず声を漏らした。「どうしたの?」

「剣ちゃんもありがとう。でももういらないから」

そうして止める暇もなく自転車に跨って、青に変わった横断歩道を、猛スピードで駆け抜けていった。残されたぼくたちは暫く無言だった。もぼくもショックを受けていた。あの子はきっといいプレイヤーになるに違いないと思っていたから、裏切られたようにすら感じた。部活で何か嫌なことがあったのだろうかとぼくは不安になった。とぼとぼともと来た道を引き返しながら、また明日聞いてみようとが呟いた。気持ちも変わるかもしれないし。

翌日重い気持ちで学校へ行くと、あの子は来てなかった。ぼくは更に落ち込んだ。でもおかしなことに、あの子以外も来なかったし、オジイもいなかった。一、二年は首を傾げた。はあの子のラケットを持っていた。

お昼を過ぎた頃に、後輩のひとりが泣きながら学校へ来た。ぼくとダビデがあやしても全然泣き止まない。買い物から帰ってきたが泣きじゃくるその子を慰めて、どうにか理解できる言葉を引き出すことに成功した。でも、それは全然理解したくないニュースだった。あの子が昨日一度帰ったあと、コンビニへ出かけて、その帰り道にダンプに轢かれて、死んでしまったという話だった。は真っ青になって、しばらくしてから酷く泣きだした。



それから、はあの子のラケットを使って少し練習に混じるようになった。あげる、と言われたラケットを、どうしたらいいのかわからないと言った。あの子のラケットはによって毎日ピカピカに磨かれ、そしてあの子が使うはずだったロッカーに入れて部室においてある。

あの事件から一年以上が経っている。は、わりと素質があったみたいで、今ではテニスも結構様になっている。高校に入ったら女テニに入るのもいいかもしれないと皆が言うけれど、本人にそのつもりはなさそうだ。お金もかかるしねと言いながら、あの子のラケットを拭いている。よどみない手入れのお蔭で、ラケットは相変わらず新品のようだ。ぼくなんか、もうぼろぼろなのに。はぼくの視線に気づくと、ラケットを拭く手を動かしたまま、さびしそうに微笑んだ。

「ねえ、あの子、自分が逝っちゃうの、わかってたのかな」




(置き忘れられたラケット/葵剣太郎)