私が肩から提げていた熊のぬいぐるみは以前UFOキャッチャーで金太郎が取ってくれたもので、胴体部分の後ろにチャックがついていてそこに小物をいれておける仕様だった。肩にかける紐もついていた。中学生にもなって熊のぬいぐるみを肩にぶら下げている女子はお世辞にも格好いいとは言い難いだろうと思いつつも、私はその熊がとても気に入っていて、熊太郎なんて名前をつけて絆創膏を入れ、後生大事に持ち歩いてた。熊太郎はあんまり可愛い顔をしていなかったのにも関らず、だ。理由なんか知れたことで態々口にするまでもない。私は多分結構本気で金太郎に惚れているのである。そういうわけで、いくらダサいとバカにされようと、熊太郎はいつも私の肩にかけられてテニス部の活動風景を眺めていた。一年の終りに貰ったから、結局丸一年見守っていてくれたことになる。

二年の終りごろ、学校に不審者が出た。四天だけじゃない。近隣の中学も被害にあっていた。ウサギ小屋のウサギが殺されたり、女の子があとをつけられたり、窓ガラスが割られたり、被害は実に様々だった。どうやら複数犯らしいとのことだったけれど、余程うまくやっているのか、それとも警備員や警察官が無能だったのか、いつまでたっても犯人が見つからなかった。金太郎は犯人を捕まえたがったけれど、複数犯だし、部活のこともあるし、怪我でもしたら大変なので、私は部員を総動員してなんとかなだめすかしていた。犯行は不定期で時期も読めず、生徒も教師も神経を磨り減らしていた。結局、最後の手段で夜間警備が置かれて、それっきり悪戯はピタリと止んだ。私たちは皆胸をなでおろした。最後の事件、バレー部の部室の壁一面に赤い手形、から、二ヶ月が経っても何も起こらなかった。犯人は見つかっていなかったけれど、夜間警備は解かれることになった。私たちは段々と不審者のことを忘れた。

警備の解かれてしばらくしたころ、放課後、私は遅くまで部室に残っていた。卒業式の後部室でパーティーをやる予定だったので、片づけをしていたのだ。金太郎も他の部員も総じて片づけが苦手なので勿論手伝ってくれたりはせず、とっとと家に帰っていた。私はパイプ椅子に座って、まず資料を整理した。それから置き去りにされた週刊誌を紐でくくった。ロッカーの上の埃を落とした。男テニの部室の汚さたるや筆舌に尽くしがたいものがある。あっという間に時間は過ぎた。

外が真っ暗になった頃、突然部室のドアが勢いよくノックされ、私は驚いて箒を動かす手を止めた。仕上げの掃き掃除の途中だったのだ。いたずらかと思って、鍵をかけておいたことに取り敢えず安心の息をついてから、携帯を出そうとした瞬間、外から金太郎の声が私を呼んだ。「開けえ!!」私は困惑しながらも、慌てて鍵を開けた。瞬間扉がおもいきり開いて、転がり込むように彼は部室に入ってきた。走ってきたらしく酷く息を切らしていて、顔を見るなり、私の手をぎゅっと痛いぐらいの力で掴んだ。日に焼けた頬は汗ばんでいるのに青褪めていた。

「帰るで!」
「は?」
「ええからはよ仕度せえ」

掃除の途中だから少し待ってほしいと私が頼んでも金太郎は耳を貸さなかった。ずかずかとテーブルの端まで歩き、置かれていた私の鞄を持ち、制止も聞かずに踵を返して促すように扉を開ける。私は諦めて従うことにしたが、部室を出る瞬間、熊太郎を忘れたことに気づいた。私は金太郎とつながっている手を引いて、熊太郎を持ってくるといった。金太郎の顔がさっと更に青くなった。そして一瞬逡巡して、仕方なさそうに頷く。「はよするんやで」

でもどんなに探しても熊太郎は見つからなかった。金太郎は私が折角片付けた部室をひっくり返すようにして熊太郎を探したけれど、部室のどこにもない。もしかしたら教室に忘れたのかもしれない、そんなはずないと思いながら私は言った。空気を和らげたかったのだ。金太郎の表情が鬼気迫っていたから。私は部活中転んだ一年生に絆創膏をはってあげて、絆創膏のゴミはセーターのポケットに入っている。その絆創膏は熊太郎の中に入っていたのだ。熊太郎は絶対にここにあるはずなのに。それにしても金太郎はどうしてこんなにあせっているんだろう?白石先輩が卒業して毒手攻撃がなくなってから、金太郎がこんなふうに何かに怯えた様子を見せたのは初めてのことだった。彼はロッカーを全部開けて、熊太郎がそこにないことを確認すると、私を振り返って断固とした口調で言った。

「明日でええやろ」
「でも」
「帰るて言うたら帰るんや!」

金太郎は私の手を強く引いて部室の電気を早々に消す。私はなんとかロッカーだけは全部閉めた。彼はドアの鍵を閉めると走り出し、鍵を返さなきゃと私が途中で止めるのも聞かなかった。校庭を全速力で横切って校門を出て、大通りのコンビニに出たところで、漸く立ち止まる。コンビニに着くと、私と金太郎は息を切らして顔を見合わせ、どちらからともなく中に入った。金太郎はガリガリくんを買い私はカルピスを買って店を出た。

夜道を並んで歩きながら、金太郎にどうしてあんなに急いだのかと尋ねると、金太郎はぎくりとして、言いにくそうに話し始めた。

「・・・わい家帰って寝ててん。そしたら熊太郎が夢に出てきたんや」
「熊太郎が?なんで?」
「わからへんけど、が片付けしとる後ろで、熊太郎が立って叫んどったんや。『逃げて!早く逃げて!』って。それがごっつい嫌なカンジやってん。めちゃめちゃ怖い夢やったで」
「・・・それで逃げたの?」
「おん」
「・・・・・・・。」
「・・なんもなくて、ほんま良かったわ」

金太郎は私を家まで送り届けると、矢鱈と念入りに鍵を閉めるように言い残して去っていった。彼の語った夢の話は確かに気味が悪かったが、金太郎の慌てようの面白さのほうが先に立った。彼は家から態々私を迎えに来たのだ。本当に意外と怖がりだな、と私はその背中を見つめてほくそえんだ。

翌日の朝早く、私は急いで学校に向かった。部室を金太郎がひっかきまわしたままにして帰ってしまったし、熊太郎を探したかった。早足で歩いていると通学路の途中に金太郎が立っていた。私を待っていたらしく、眠そうな目を擦って、なんや眠れんかったんや、と彼は言った。本気で怖がりである。私はちょっと笑ってしまい、彼は露骨に顔をしかめた。私たちは珍しく手をつないで登校した。朝が早いので、まだ他の生徒たちもいない。しかし、校門を潜ると、学校の空気がなんだか妙に騒がしかった。なんだろうか。不穏な雰囲気に金太郎と顔を見合わせて首をかしげていると、オサムちゃんがちょうど通りかかり、私たちに気が付くと険しい顔をして近づいてくる。

、昨日お前何時までおったんや」
「七時くらいです」

オサムちゃんははあ、と大きく息を吐いて、間一髪やってんな、と言った。首を傾げる私たちに向かってオサムちゃんはこう続けた。

「部室に不審者入りおった」
「この前の?もう終ったじゃないですか」
「終ってなかったっちゅーこっちゃ」
「鍵かけましたよ?」
「おお、壊されとったわ。ホンマ暇な奴らがおんねんなァ」

すると突然、金太郎は黙ったまま、部室に向かって目にも止まらない速さで走り出した。私はオサムちゃんに頭を下げて、それを慌てて追った。

開け放たれたドアの前に立ち尽くす金太郎の肩越しに、部室の中を見た。酷かった。至る所にスプレーで落書きが残されていた。私は呆気にとられて、戦慄する暇もなかった。呆然としながら中に入った。しらけた頭で、取り敢えず部室に荷物を置くことを禁止にしておいてよかった、と思った。ラケットでも盗まれたら洒落にならない。ボールもいくつか、ナイフで切り裂かれたりする被害にあっていたけれど、殆どは体育倉庫に入っているので、そう問題ではないだろう。アルバムとトロフィー類は、パーティーの準備の邪魔になるからと全て一番端のロッカーにまとめて入れてあって、無事だった。ロッカーの鍵を開け、それらの無事を確かめて、よかった、と心の底から安心して溜息を吐いた私の腕を、金太郎がいきなり引いた。抵抗する暇も無くそのまま腕の中に閉じ込められる。開けっ放しの扉の向こうに先生方がやってくるのが見えて、私は慌てたが、金太郎は自分の胸に私の頭を押し付けたまましばらく動かなかった。短い沈黙のあとで、彼は呟いた。

「熊太郎が、助けてくれたんや」

何を言っているんだろうと私は思った。らしくない台詞だ、普段の金太郎ならあのまま残ればよかった、というに違いないのに。金太郎は喧嘩で相手が10人居ても負けない、と豪語していたし、それは実際事実だったのだ。私を巻き込んでの喧嘩になったことも何度かあったけれど、金太郎はけして負けなかった。動揺を誤魔化すように、「何よ、あのまま残ってたらあんたが不審者倒したんじゃない、」と私が意地悪く言うと、金太郎は黙ったまま私の肩を掴んでゆっくりと身体を離した。そして昨日のまま出しっぱなしだったパイプ椅子を見る。私も釣られてそちらを向いた。背筋が凍った。

小豆色のビニールの覆いの上に、ナイフでばらばらにされた、くまのぬいぐるみが置かれていた。昨日どんなに探しても見つからなかった、熊太郎の無残な姿だった。急激に血液が冷めていくような気がした。ああ、そうだった、何を言っていたんだろう。昨日金太郎の夢に熊太郎がでていなかったら、彼は私を迎えに来なかったのだ。私はひとりきりで不審者に鉢合わせしていたに違いなかった。

しばらくして不審者は捕まった。別件逮捕だった。犯人は四人居た。若い男たちだった。全員がナイフを持っていた。別の中学校の音楽室で、放課後残っていた女の子を誘拐してころして、ばらばらにして、捕まった。

私は熊太郎の亡骸をなんとか修繕しようとしたけれど、駄目だった。乱暴に引きちぎられた胴体部分は、殆ど布としての役目を果たしていなかった。しかたなく、私は金太郎と連れ立って、お寺に熊太郎の供養を頼んだ。住職のおじいさんは私たちの話を聞いて快くこの頼みを受けてくれた。熊太郎はお焚き上げにされた。立ち上る煙の前で、金太郎は殊勝な顔をして、おおきになあ、と呟いた。



(くまの警告/遠山金太郎)