三年の初め、さんがマネージャーに就任した直後のことです。体育倉庫にあるラケットのグリップテープの張替えを伴田先生に命じられたさんは、不承不承といった体でのろのろとコートを出て行きました。僕はそのとき丁度休憩中でだったので(コートが限られているので時間差で休んでいるのです)、先生に断ってさんを手伝うことにしました。もともとマネージャーなんか絶対嫌だといったさんを、無理やりテニス部に引き入れたのは僕だったので、少し責任を感じてもいたのです。一足先に倉庫に入っていくさんの背中を僕は小走りで追いかけました。さんは、ラケットの入った籠を引きずり出しながら、僕に気づくと、とても嫌そうな顔をして、来なくていいよ、あんたが来ると碌なことになんないから、と言いました。恋人に向かって言うにはあまりに厳しい言葉ですが、そのとき僕は彼女のこういうところがとっても好きだなあ、と思います。正直な人なのです。それに考えてみると、さんの言うことはなかなか的を射ていました。何故なら僕たちは、やはりそれから禄でもない目にあったからです。



体育倉庫の電球は切れかけていました。ぱちぱちと時々思い出したように点滅する白熱灯をさんは鬱陶しげに睨みながら、グリップテープを器用に、古いラケットに巻きなおしていきます。巧みな手つきに感心して、僕より巧いですと褒めると、さんはやっぱり嫌そうな顔をして、それはあんたに問題ありだろ、と呟きました。さん、ホントかっこいい。僕は惚れ惚れしながらさんの細い指先を見つめていました。しばらくして、やることないならでてけば、とさんは言いましたが、僕は笑って取り合いませんでした。それ以上彼女が何か言ってくるということはなかったので、それでよかったのだろうと思います。色々言うひともいますが、僕たちは、僕たちのテンポで、それなりに仲良くしているのです。



ラケットは大量にありました。さんがグリップの巻きなおしを終えるころには、体育倉庫の窓から見える空は紫色に変わりつつありました。そろそろ部活が終る時間でした。戻らなくていいのかと聞かれましたが、伴田先生は僕がここにいることを知っているし、副部長もいるし、問題ないですと返しました。僕がラケットの突っ込まれた籠を持ちあげると同時に、倉庫の出入り口の扉に手をかけたさんが、珍しくすっとんきょうな声をあげました。


「あれ?」
「どうかしたですか?」
「開かない・・・」



さんは引き戸を足で蹴飛ばしながらなんとかあけようとしましたが、どうやら何かが詰まってしまったようで、扉はびくりともしません。僕がかわって引いてみても同じことでした。さんは髪をかきあげて溜息をつき、ホントにろくなことねーな、と悪態を吐いて、マットの上に胡坐をかきました。


「壇、携帯持ってる?」
「ここ圏外です」
「・・・・マジかよ・・・つかえねー」




物憂げに、開かないよう外からもつっかえをされた窓の外を見ます。僕はさんのそばに腰を下ろして、すぐに誰か気づいてくれますよ、と言いました。さんは僕の携帯をいじりながら、うん、と適当な返事をしました。彼女は僕のSDの中に入っていた犬や阿久津先輩や千石先輩の写真をかちかちとしばらく見ていましたが、やがて携帯を閉じて僕に返しました。さんがマットに横たわると、僕は少しムラムラしましたが、それを悟られないように、僕は携帯のミュージックフォルダから音楽を流しました。それは最近流行りの歌で、クラスの女の子がわざわざ僕の携帯に入れてくれた着うたでした。僕は機械がそんなに得意ではないので、入っているのは彼女がそうしてくれた、その一曲だけでした。狭い体育倉庫の中に、軽快なポップミュージックがなんども流れます。はじめはいい歌だな、と言っていたさんも、三度目くらいから再び嫌そうな顔を作り始めました。



そんなときでした。僕はふと、携帯から流れる音楽が、時々ぶれることに気が付いたのです。いや、そうなったときに気付いたのかもしれません。僕は少なくとも一度目はきちんと曲を聴いていましたが、はじめは絶対に普通だったはずなのです。さんも気が付いたようでした。暫く音楽を聴いて、「同じところで音量がでかくなるんだ」、とさんは言いました。成る程。僕は頷いて、携帯のスピーカーから流れる歌の歌詞を辿りました。



最後のお願い聞いてくれる

そろそろ前にすすまなくちゃ

あとに残るのはひとつでいいの

うつくしい思い出だけで

このロマンスはおしまいよ、さよならを言って



高い女の子の声でした。アップテンポに乗せられた別れの歌です。そういえば彼女の前で流すような歌ではなかったかもしれません。さんは歌を覚えたのか、小さくそれをくちずさむようになりました。所々音量のあがるところを強調して。やがて、彼女は明確に音量の上がる部分を探り当てたようでした。彼女は歌うのをやめて、高くなる部分の歌詞を呟きました。



「お、

     前、 

       の、

           う、し  」



さんは固まりました。僕も固まりました。背筋を凍らせるような寒さが身体を襲いました。マンスはおしまいよ、と高い声が言いました。サビの部分です。最後に3度繰り返される。



最後の願い聞いてくれる

そろそろにすすまなくちゃ

残すものなんかひとつでいい

つくい思い出だけで

このマンスはおしまいよ、さよならを言って



さんはもう歌詞を繰り返しませんでした。携帯を僕の手からもぎ取ると無言で逆に叩き折り、けして振り返らずにそれを後ろにひょいと投げました。僕は携帯の動きにつられて振り返りそうになりましたが、さんが僕の顔を窓側に向けたままにしたので、なんとか踏みとどまることができました。さんは、ガラスに蹴りを入れて割り、外のつっかえをはずして窓を開け、僕の首根っこをひっつかんで、全速力で外へ飛び出しました。二人で倉庫から爆走し、テニス部の部室にたどり着くと、部活はもうとっくに終っていて、伴田先生がお茶をすすっているだけでした。僕たちはしばらく何も言えませんでした。5分ほど経って、さんは、伴田先生に、窓を割ってしまった旨を話して謝罪しました。もう遅いから明日様子を見ましょうと、先生は言いました。さんと僕の顔があまりにも蒼白だったので、心配してくださったのでしょう。



翌日の朝早く、先生とさんと僕は連れ立って体育倉庫へ向かいました。窓は大きく割れていましたが誰かが忍び込んだ形跡はありませんでした。何かが起こったという形跡も。僕はなんだかほっとしました。気のせいだったのかもしれないと思ったのです。でもさんは口を引き結んで僕の手を握りました。僕はびっくりして、さんの顔をまじまじと見ました。だって手なんかつないだことがなかったんです、それまで。



さんは黙ったまま細い指先で跳び箱のそばの床を指差しました。黒焦げの塊が落ちていました。

それは僕の携帯電話でした。











(うしろ/壇太一)