焼け木杭には火が付き易い


※不適切な性に関する記載があります




「女の子はさあ、三途の川渡るとき、初体験の相手が迎えに来ておんぶして渡ってくれるんだって」
「じゃあアタシ太助が迎えに来るワケ?」

 えー、ロマンチックじゃね?などと姦しく言いあいながら、振袖姿の娘が三人、並んで往来を歩いている。外で賑やかに語らう話題ではないだろう、今時の女の子というのは随分蓮っ葉だ。私もあの年の頃はそうだったかなあ、と振り返ってみて、そういえば少女時代には、まっとうな女友達なんてロクにいなかったことに気付いた。思春期は戦乱に次ぐ戦乱の時代で、自分も随分むちゃくちゃばかりしていたので、女の子同士の友情みたいなターンが人生に出現したのは随分後だった。こびりつくような憧れを覚えながら、地面に縫い付けられたように長く伸びている、女たちの影を踏まないよう歩いている。手に持った2段重ねの32アイスクリーム(大納言小豆)をひとくち齧ると、その冷たさに奥歯がきんと染みた。
 夕暮れどきだ。西の空の金色が薄紺の夜の帳に滲んでいた。道端に咲きかけた桐の花が濃い影を塀に焼き付けている。
「ロマンチックじゃね?」という甲高い声を脳裏に反芻しながら首を傾げる。ロマンチック。三途の川の橋渡しに、処女を奪った男が迎えに来る、ということが?そうだろうか。どちらかといえば、死んだ後ぐらい自由に誰にも迷惑をかけずにあの大空に翼を広げ飛んで行きたい。その方がよほどロマンチックじゃないですか?何が悲しくて、初体験の男などにおぶられて死出の河を渡らねばならぬというのか。
 三途の川と処女、といえば、光源氏と玉鬘の挿話が印象深い。おりたちて汲みは見ねどもわたり川人の瀬とはた契らざりしを。手塩にかけて養育した玉鬘を黒髭に無理矢理手籠めにされてしまった光源氏はこう歌を詠んだ。「君とはヤれなかった。まさか別の男が君をおぶって三途の川を渡るなんて思わなかったな」と。ぶっ殺すぞ、クソ野郎。という話ではないですか。舐めてんじゃねえよ、処女は子牛じゃねえんだぞ。いくら金かけて養育したって好きな時にテメエが喰えるとか思ってんじゃねえぞ。滓。かえすがえすも魂に青筋が立つほどひどい歌だが、これに対し玉鬘は、みつせ川わたらぬさきにいかでなほ涙のみをの泡と消えなむ、と返歌をした。源氏だの黒髭だのクズ男に追われて川を渡るぐらいなら、涙の流れの泡になって消えたい。さすが玉鬘。そうですよね?滅茶苦茶に気持ちがわかる、超、感情移入。
 つまらないことを考えるほど腹が立ってきて、ぎりぎりと歯噛みしながら口の中に苦虫が広がったところで、アイスクリームが日差しに溶けて指に流れていることに気づいた。慌てて手を口元に引き寄せて、ミルクの筋を舌で追いかける。我ながら意地汚い。子供か?思春期を戦乱で失ったためか、いつまでもガキ臭い意地汚さが抜けない。アイスの甘さに顔を顰めている端から、丁度、画面を切り取ったように、先ほどの少女たち三人組が曲がり角に消えていくのが見えた。
 色とりどりの振袖が揺れ、民家の塀から顔を出す盛りの紫陽花に並んで、連なって笑う、若々しくきらびやかな横顔。驕りの春だ。キレイだなあ、と私は思い、呆然と立ち尽くした。撃たれたような感慨がある。疑問が腑に落ちたような気がしたのだった。なるほど。あの子たちは幸せなのだ。つまり、好きな男初めてを過ごした、という意味で。死後、三途の川を背負って渡って貰うことが吝かでない、と思えるほどに愛しかった男と、素敵な時を過ごしたのだ。
 それを思えば、確かにロマンチックな話かもしれない。若いっていいな、の、「いいなあ」だけが口を思わずついて出る。

「何が?」
 うっわ。心臓が飛び出るかと思った。懐かしい声に慌てて振り返れば、昔なじみの男がそこに居る。まるで石造のように。昔より少し短くなった天然パーマの白髪が、ばねの様に風で揺れている。銀時だった。コンビニの帰りらしく、ジャンプの入ったビニール袋を左手にぶら下げていた。死んだ魚のようなぼんやりした眼が、私の右手を意地汚く見つめている。

「うまそーなモン食ってんねェ。お姐さん」

 このドロドロなアイスクリームをうらやまし気に望むところが、私と同じ、なりふり構わない戦中世代という感じだ。ギブミー、チョコレート。プリーズ!私は呆れ半分に、旧友の目の前に右手とアイスを掲げて突きつけた。

「食べる?融けてるけど」
「マジか」

 言うなり、銀時は私の手からアイスクリームを奪い、盛大にとけかけた一段目を大口の中に収めてしまった。まるで初めから其処にしまわれるべきだったかのような速度。鮮やかだった。冷たさに眉を顰めたあと、とろけたようにだらしなく頬を緩ませる。

「あ〜甘ェ。生き返る」 

 身体に重りを背負っているような気怠さをにじませて、銀時は呻いた。昔から常時テンション低めの男だったが、老成というか老化というか、とにかく、過去の記憶にはないじじ臭い所作だった。改めて、すっかり大人だ。身長も伸び、声もいくらか低くなっている。おじさんだなあ、と感慨深く思いながら、けれどもしつこく求めているのがアイスクリーム、というところは、まったく成長していない。

「甘党なのは変わんないわね」

 銀時は胡乱な目をして私をじろりと見降ろした。そのまま残りのアイスクリームを吸い込むように食べきってしまう。コーンをバキバキと音を立てて咀嚼しながら、物憂げに後頭部を?いている。

「どこも変わってねえよ俺ァ。死ぬまで少年よ」
「そう?見た目は随分大人になったけど」

 銀時は苦い薬を飲まされたような顔をした。気まずいときに、わざと不機嫌な様子を演出しようとするときの、逃げのしぐさ。こういうところは、昔と変わらないのかもしれない。銀時と再会したのはほんの数か月前のことだから、思い出の中の少年めいた面差しと、すっかり大人びて影の出が始めた今の横顔が重なりぶれて、ひどく心もとない気がする。手探りで輪郭を確かめているかのようだ。昔はあんなに一緒にいたのに、思い出す必要もないほど見ていた顔だったのに、気が付けば会わずに過ごした人生が随分長く長く伸びている。

 銀時は私の隣に並ぶと、空中をうつろに眺めながらぽつりと言った。

「趣味の悪ィ都市伝説だな」

 三秒ほどを要して、それがさっきの女の子たちの話題についての感想ではないか、と思い至った。聴いてたんだ、と笑うと、銀時は首のあたりをぼきぼきと鳴らしながら、うんざりしたように舌打ちした。

「聞きたくて聞いたんじゃねーよ。……往来でする話かねェ、マセガキが」

腕を組みながら、まるっきりおじさんのようなことを言うので、私は思わず噴き出してしまった。自分もついさっき同じ感想を抱いたので、我々はすっかりおじさんとおばさんの一そろいということだ。一人でうけて居ると、銀時は怪訝そうに首を傾げた。

「何ウケてんの」
「いや私もおなじようなこと考えてたから。お互い年取ったね」
「あ?ガキの性事情なんざ聞きたくねえだけだっつの。なんですか?初めての男って。光源氏なんか三途の川何往復すんの?」
「その源氏物語に出てくるでしょうあの話。松陽先生の授業でもちょっとだけ触れたような……」

 松陽先生。耳で自分の声を聴いてから、唐突に、ぎくりと身体がこわばった。あまりにも自然に、先生のことが口を突いて出ることに驚きがある。先生の話をするのは何年ぶりのことだろうか。ずっと忘れていたのに、こうして銀時といると、昔のことばかり思い出してしまう。
 村塾にいたころ、先生はいつでも私たちの話題の中心だった。先生を助けたらどこそこに行こう、あの本を解説してもらおう、あれを食べてもらおう、そんな話を、戦時は同門の連中といくつもした。結局どれもかなわぬ夢だった。だから、私たちは先生の話をしなくなった。銀時も桂も高杉も、きっとそうだろう。横目で様子を伺えば、銀時はかったるそうに小指で鼻をほじって、それから溜息を長く吐いた。

「んなもん覚えてるわけねえだろ。俺は源氏とか真中淳平とか結城リトとかチャラついた奴ァ嫌いなんだよ」
「あは、嫉妬?」
「うるせー。軟派野郎なんざ男は皆嫌いなもんだろ」
「そうかな。……銀時も似たようなもんだと思うけど」
「あ?誰が銀魂の真中だ」
「そこまでは言ってない」

 でも、銀時は昔からとにかく誰にでも優しい男なので、近くにいたころはそれなりに苦労したような気がする。仲間内では異様にモテる男がたくさんいたものだから、モテないモテないと揶揄されていたが、実際そんなことはない。攘夷戦争の英雄・白夜叉様のお通りだ。私と銀時は呼び名のある仲ではなかったけれど、「何もなかった」というにはあまりに色々なことがありすぎてはいる。互いに後ろ暗く爛れた関係である。 銀時を慕う女の数はほどほどに多く、我々の間の「色々」は大きく豊かな尾鰭をつけて、女たちの間を回遊していた。針の筵である。懐かしい、青春の痛み。

「……まあ知らんフリをしたいならしとけばいいけどね」
「かわいくねー」
「はいはいどうも。あんたは精々かわいい女を背負って川を渡りな」

 笑い飛ばせば、同時に往来に垂れた藤のにおいが鼻腔を擽った。盛りを過ぎて萎れた花の、籠ったような芳香。風が気易く花を通っていくのに誘われて視線を彷徨わせると、すぐ隣、少しだけ後ろを歩く銀時は、気だるげに腰元の木刀に手をかけて空を眺めていた。

「俺ァおぼこに手ェ出したことねえよ」

 お茶を飲んでいなくてよかった。衝撃発言である。それこそ往来で言うセリフでもない。若者同士なら蓮っ葉で済むが、中年の夜の思い出話など、目も当てられない話だとわかっているのに、ふと見上げた横顔が往時と重なり、離れて、また重なって、髪があの時より短い、などとかなりろくでもない感想を抱いてしまった。銀時がいなければ、自分を自分で殴っているところである。アホか。浸るな、と言い聞かせて私は無理やり微笑んだ。

「そうなの?素人好きそうなのに」
「俺の何を知ってんだよ」
「昔は春画の回し読みしてたし」
「アレは辰馬のだっててかなんで知ってんのお前が」
「辰馬私にも平気でエロ本まわすよ」

 あいつマジでシメる、と銀時はかなり怒気を込めて呟いた。何年前の話だ、今更過ぎて呆然とするような話題である。

「背負う女もいないんじゃあ、あの世行ってから暇だね」
「女背負って川渡る以外にやることねえのかよあの世は。つーかただの与太だろ」

 銀時はそう呆れたように言った。その言葉はなんだか、一縷の救いの様に思われる。

「そうだといいけど」

 だって初めての男なんて、私は、絶対に会いたくない。思い出したくもないし、本当は、ろくに思い出せもしない。弱い自分がただ凌辱に耐えているだけの、暗い記憶である。

 気が付けば日が落ち始めている。ぽつりと灯ったネオンの明かりが遠くに見えた。次の角を曲がればかぶき町の門が見えるころだった。そろそろ別れ道かなと考えていると、不意に腕を掴まれた。死んだ魚のような目が私をとらえて、少し困ったように揺れていた。

「何?」
「あー。メシ食ってけば?」
「なんで?」
「うち今なんもねえから」
「は?育ち盛りの子持ちなんだから家に飯ぐらい用意しときなよ」
「子じゃねえよ。従業員」

 銀時は頭の後ろを掻きいて言った。なんだか弁解するみたいな口調だった。

「育ち盛りがいるから呼んでんだよ」
「たかりかよ!甲斐性ない大人になったね」
「江戸っ子は宵越しの金は持たねえんだよ」
「江戸っ子って、萩育ちでしょ。田舎モン」
「お前もだろ」
「そうだね」
「……何笑ってんだよ」
「……いや、懐かしいなあと思って……」

 言いながら、本当は、萩、あそこが故郷、という感じはあまりしないでいる。全部無くしてしまったからだろうか。このままいけば、二度とは帰らないような気がした。黙って懐旧に身を浸していると、掴まれた腕に力が込められて、オイ、と銀時が私を呼んだ。

「俺が行く」
「ん?」
 聞き返すと、かなり早口で、銀時はもう一度言い直した。

 俺がてめえを三途の川まで迎えに行く。俺ァてめえが初めてだったし、なんかそういうカンジでイケるだろその辺。アバウトだろ。多分。

 歯切れの悪い口調に、話の内容を理解するのにたっぷり10秒かかった。理解した後は、ぐるりと視界が揺れた。眩暈かもしれなかった。銀時と寝たのは一度だけだ。その夜のことを言語情報として共有したことが、今に至るまで一度もなかったので、なかなかの衝撃だった。夢じゃなかったのかアレ、みたいな感慨がある。 私は息をつめたまま、じっと銀時の、銀色の髪、そこそこに太い首、がっしりした胴と腰、そしてブーツの先を順に、点検するように見つめた。汗が噴き出して、熱が耳の上を奔る。一夜の過ちを問いただされるのは男のほうと相場が決まっているのに、私ときたらよ。何を言うべきか迷っているうちに、口は勝手にろくでもないセクハラに逃げた。

「ええと……超、早かったもんね」
「ぶっ殺されてえのかクソアマ」
 銀時はこめかみに青筋をたてて凄んだ。言っとくけど今超耐久性優れてるからね、あのころの元気いっぱいな銀さんとは違うから。勃ちもすげえ悪いから。フォローになって居ない弁解を並び立てているのを聴いていると、なんだか力が抜けてくる。

「そっちも大人になったってわけね」
「犯すぞ」

 私は噴き出してしまって、ごめん、と適当な詫びを入れた。銀時は応えなかった。間を持たせたくて、腕をとって引く。

「なら特別に夕飯奢るよ。夏だし素麺にでもしよう。薬味いっぱいいれてさ」

 銀時は重い車輪がゆっくりと回るようにじりじりと動き始めた。掴んだ指先は、筋肉質なこの男に珍しく冷たい。その体温に触れながら、私はなんだか無性に笑い出したいような、泣き出したいような、何とも言えない激情を持て余している。

「銀時」
「あ?」
「迎え来なくていいよ」
「……なんで?」
「私より長生きしてほしいし。……私は川辺に来た奴をぶっ殺して地獄に送るって今決めた。顔も思い出せないけど」

 だからアンタは好きな女を背負ってさ、川を渡るといいと思うよ。
 離そうとした指を、銀時がギリギリ握るので痛かった。短い舌打ちが聞こえる。無理に押し殺したような声が、私の耳のそばで蟠っている。ふざけんじゃねえよ、と。

「絶対やだね。女のほうが寿命長えだろーが。そもそも俺ァ、太く短く生きるって決めてんだよ」
「そういわずに、クソジジイになるまで生きな」
「じゃあテメーもクソババアになんな」
「いや。若くして美しいまま死にたい」
「既にもうそんな若くねえんだよ」
「言ってくれるなそれを」
「別にいいじゃねえか。二人して年とりゃあジジイとババアで」

 なにそれと笑っても銀時は笑わなかった。手汗がねっちょりしはじめていて気持ち悪い。始末が悪いな、と思った。過去はかえられないままそこにある。私も初めてが銀時だったらよかった、などという、今更どうしようもない願いが胸の中に影のようにおちてきても、殆ど天災みたいなもんだ。けれども、もしそうだったら、くだらない死後の妄想ももう少しロマンチックだったのかもしれないのに。それもまた、今更どうしようもない話だ。