焼け焦げる



***



試験期間中は短縮授業になって早く帰ることができるというのはありがたいけれど、そこまで真面目じゃない私は暇を持て余すだけだということは判っていた。
何よりも、1学期の期末試験。七月の終わり。
暑い。暑い。暑い。
脊中を流れる汗を感じてうんざりする。こめかみに貼りつく髪の毛も鬱陶しい。
のろのろと歩く。早く歩けば早く家に着けるのだろうけれど、それだけの元気も無かった。
ゆっくり歩けば歩くほど時間はかかるわけで、時間がかかれば疲れも増すわけで。
ああ、このままじゃあ私は家にたどり着く前に溶けて水たまりになって蒸発するんじゃないかな。
足元からぐじゅぐじゅと。ゆっくりゆっくり着実に溶けて背を縮めていく自分のことを思って苦笑しそうになって、やっぱり疲れてたからそれだけの表情も作らなかった。
ブロック壁が作る低い日陰。それでも無いよりはマシだと思って壁の右側、日陰になっているところに避難する。
青空。青空。憎々しいくらいに青くて、それを背景に尊大に膨らんだ白い雲。蒸すような空気。地面を這う陽炎。これでもかというくらいに強調してくる夏。

「なんや、やっぱそこ歩いとぉのか」

後ろから聞こえた私の名前。私の名前らしくも無く、恐ろしく爽やかに呼ばれた。
この声の主を私は知っていて、しかし相手が私のことを知っているとは思わなかったので、ああ、いやいや。
そりゃクラスメイトなのだから、知っていたっておかしくは無いのだし、知られているだろうと思っていたけれど、ううん、そうじゃなくて。
知っていようがいまいが、私と彼は、会ったら挨拶するような、そんな仲では無いのだ。なかよしこよしなんてとんでもない。
だから私は内心それなりにとても驚いて、ただ、驚いた顔を作る体力も無かったので仕方なくそのまま振り向いた。

「偶然だね、遠山君」
「おお!せやな!いつもはこの道通らんさかい!」

ふうん、そうなんだ。どうして今日は違う道なの?
と、それくらいのことを話す社交性くらいは勿論私だって持ち合わせている。でも。いやはや。私はその台詞を言えなかった。
想定した場所に彼がいなかったからだ。
ブロック壁の上、片足を乗せるのがやっとの細くて細いそのへりを、いとも簡単に歩いていた。
私よりも低い筈の身長が、私のことを思い切り見下ろす。私も思い切り首をあげる。
遠山君は身長3メーターの大男。私の目線に、彼の汚れたスニーカー。
煙と馬鹿はなんとやら。いや、馬鹿をぼかさなくちゃいけないのかな。煙となんとやらは高いところがお好き。
まあ、結局、何が言いたいかって、彼はどうやら馬鹿のようだ、と。そう溶けた頭で思った。
何が楽しくてこの糞熱いのに太陽に近づくんだろう。
面倒なので私は足を止めない。のろのろと歩く私の横を、軽やかに歩く白いスニーカー。泥の跡。
壁の上なのに私と同じペースだな、と思って、いや、後ろから追いついてきたんだから私よりも早い筈で、なんだ、合わせてくれているのかと気づく。

「遠山君、部活は?」
「試験期間中は禁止や」
「へえ」

帰宅部には知る由も無い。てっきり、彼はいつだってテニスをしていて、どんな時でもテニスをしていて、そのうえテニスをしているものだと思っていた。
例え勉強をしていても居眠りしていても、御飯を食べていても寝ていても。彼はテニスをしているものだと。
成程。学生の仕事は勉強ですというのは、うちの学校でも適用されるのか。
白壁はまだ数十メートルつづく。彼は一直線に歩く。私も一直線に歩く。お家へ。

は部活やっとらんのか」
「やってるように見える?」
「やっとるように見える奴はおっても、やっとらんように見える奴はおらん」
「まあ、帰宅部所属してない人はいないしね」
「なんや、そんならお前は精力的に活動しとんなあ」
「正しいけど若干見下されている気がする」
「おお!今視界めっちゃ高いで!!」

背が高いやつはこんな景色見とんのか!って。
そもそも見下すって、そういう意味で言ったんじゃないのに。これはわざとなのか。どうなのか。
無邪気に笑う彼に、3メーター越えは背が高いじゃ済まされないと、突っ込みを入れ損ねた。
世界で一番背が高い、ギネス記録に載っている人、の身長は、いくつなんだろう。
確実にテレビで一度は見たことが有るはずなのだけれど、『世界びっくり人間特集!』。細かい数値なんて覚えていない。
こういう時にそういう話を出せれば、話題がはずむのか。いや、でも彼と話題をはずませてどうしようというんだろう。
だってそもそも、だから、私は、こんな風に彼とお喋りをしながら帰るような関係じゃ無いはずなのに。

「遠山君さあ」
「おう」
「いや、なんでもない」
「なんや、気になる所で切りよるなあ」
「聞こうと思ったことがあったんだけど、聞く直前に解決した」
「へえ。スピード解決か。名探偵みたいなんか」
「名探偵って」
「ふっふーん。オレかて負けとらんで?忍足の昼飯、かなりの高確率で当てとる」
「犬みたいだね」
「よお言われる」

名探偵と犬ってだいぶちゃうよなあ、と落ち込む彼の足取りは変わらず軽やかだった。
フォローをいれようにも、犬のようだと言ってしまったのは私なのでしらじらしい。
本当は私は、どうして私に声をかけたのか聞きたかったのだ。でも。でもさあ。
それで、理由なんて無いわー、とか、見かけたら声かけるやろー、とか言われてしまったら私はどうすればいいのだ。本当に。
想像しただけでみじめな気分になった。いちいち理由が必要な自分の矮小さを、こんな糞暑い時に浮き彫りにされたらマジで立ちあがれない。
そして、十中八九そういう答えが返ってくるのだ。こいつはそういう奴だ。おそらく。
何故か心の中で乱暴な感情が育ちそうになったので全力で無視する。そんな所に体力を使っていられない。

「あ」

少し考え事をしていたら気がつかなかった。数メートル先の白壁の終わり。
いや、90度左に曲がっている。私は家まで細い道路をまたいで直進。
ここでお別れかなあと、挨拶をしようとしたら、隣のスニーカーが消えた。
慌てて前方を見れば、壁の上を駆けるスニーカー。筋肉の付いた細い脚。軽やかに跳躍して、道路向こう、ブロック壁の続きのように張られたフェンスの上に着地した。
嘘だろ。おい。嘘だろ。嘘でしょ。
ニカッと笑って手を振られる。思わず、今まで全く変えなかったペースを速めてしまった。小走りで追いつく。

、今なんか言おうとしとらんかった?」
「今の衝撃で全部忘れた」
「衝撃?ちゃんと車来とらんかは確認したで?」
「交通事故の心配じゃなくてね」

フェンスの上。ブロック壁よりもずっとずっと細いのに、それはもはや綱渡りのような細さだというのに。
両手を横に広げてバランスをとる。そうして、歩く。やっぱり、軽やかに。
地面の上をのろのろと歩く私とは比べ物にならないくらいに、自由にはねる。
目に焼きついたさっきの光景。青空、青すぎる青空。それを背景に尊大な雲。
それすらも背景にして、空を飛ぶ健康的な体。ひらめいたタンクトップと羽みたいなスニーカー。
ちょっとだけ見えた横顔は楽しそうに楽しそうに笑っていた。

「そしたら何や?」
「別に、なんでもないよ」
「またそれか」
「煙となんとやらは高いところが好きだなあって思っただけで」
「その言葉くらいはしっとるで。馬鹿にすんな」
「褒めたんだよ」

糞。糞。なんなんだよこいつは。そんなに人のことを打ちのめして踏みつぶして楽しいのか。畜生。
今の一瞬で、人にとてつもない絶望を抱かせたことにすら気がついてないだろう。馬鹿野郎。
溜息をつくことすらおっくうだった。どうせ頭上の彼には届かないし。
さっきよりも高くなった身長で彼はこちらを見下ろしてくる。また一つ太陽に近づいて笑う。暑くないのか。
いや、めちゃくちゃ汗かいてるのは判るから、暑いんだろうけど、きっと、感じている暑さはまた別物だ。
私からしたら鬱陶しいだけのこの暑さは、きっと彼の周りでは喜びを歌っているように沸き立っているんだろう。
神様なんていないとか思ってる私だけど、こんな時は神様を恨む。ふざけんな。

ひねくれてんなあ」
「やめて私は普通だから」

突っ込みのつもりで言った台詞は、思いのほか切羽詰まったものになってしまった。
ひねくれてるのが当り前なんだって。そんなことも判らないのかこいつ。
私達13歳だよ13歳。最もひねくれて素直じゃなくてやけに斜に構えて大人ぶる年頃でしょう。
大人になったふりして駄々こねるのが私達の筈でしょう。私なんて本当にその通りにそのままの一般的な中学生なのに。
なんでこいつは、そんなもの全部蹴っ飛ばして生きてるんだ。ありえない。
同級生の女の子に声かけるのにちょっとは恥じらえよ。照れてくれよ。構えてくれよ。
なんで躊躇いもなく壁に上ってるんだよ。フェンスの上を歩けるんだよ。
あまりにもガキ臭い行動。でも、ガキであることを認めようとしないで大人ぶる私達よりもよっぽどカッコよかった。
こっちはもう、そんなこと、やりたくってもできないのに。壁に上るのは恥ずかしいし、フェンスの上登ったら落ちるのに。
手に入れたくても手に入れられない物を、隣で軽々と見せ付けやがって。
生まれついてのヒーローめ。巨大化して踏みつぶしにきたのか。一般下々の目線なんて判んないんだろう。
また暴力的な気持ちが心の中にむくむくと育ってきたので、もう私は自分の精神衛生上、それを抑えるのを諦めた。

「ていっ」
「うぉわッ」

思い切りフェンスを、体全体を使って蹴飛ばす。少しじんじんするつま先。ぐわしゃぁん、みたいな反響する音。
空を飛ぶヒーローを、ひねくれたガキらしく打ち落とす。流石の彼もバランスを崩して落下。
私よりも下がった目線。うずくまる彼。どこかぶつけたらしく、いててと呻いている。

「なんやいきなり!何すんねん!」
「むかついたから」
「暴力反対!」
「ねぇ、遠山君さあ」
「くっそすりむいとらんかこれ…」
「なんで私に声かけたの?」
「なんでて?」
「だって私達、そんなに仲良く無いじゃない?」

キョトンとした顔で、一瞬固まる彼。どうやら言っている意味が判らなかったらしい。
このままここで置いて帰ったらそれはそれで私はかっこいいのだろうけれど、そんな度胸も無いので立ちつくす。
陽射しは彼の脊中からさしてくる。眩しい。本当に眩しい。眩しいけどもそちらの方を見ないわけにもいかないのがまた悔しい。
ああ、なんや、遅まきながら合点した彼が砂埃を払いながら立ちあがった。ようやく揃う目線。

「歩いとったらの姿見つけたからなんとなく追っかけただけやで」
「理由も無く?」
「丁度うまい具合に壁も続いとったし」
「いや、それは理由と違うと思う」
「ほうか?十分やろ?」
「いやいや。理由っていうのはさ、用事が有ったとか、話すとメリットがあるとか」
「はあ?」
「そういうのを指すでしょう」
「いやいや。お前何頭パーなこというとんの?暑さでやられたか?」

青い空。白い雲。輝く太陽。蒸す熱気。遠くの陽炎。かいた汗とタンクトップと。
ええ、確実にやられています。多分おそらくきっと。溶け切った脳でもなんかこっぱずかしいこと言ってるのくらい判ってます。

「誰かと話す時、いちいちそんなん全部考えて未来の事とか判っとる奴なんておるん?」
「多少は考えるでしょう。打算とかあるでしょう」
「そりゃあるやろけど、ただのクラスメイトと話すだけでそんな打算とか考える奴なんてアホやろ」
「阿呆はお前だ」

予想以上に最低な答えが返ってきたので私は笑うしかなかった。こいつ。マジで。ねぇよ。
ただのクラスメイトの私は愉快になってきた。それ、本人の目の前で言うことじゃない絶対。
仕方が無いので認めることにした。理由と打算が欲しかったのは私です。はいはい。まったくもう。
ヒーローにはヒロイン。別に今日この瞬間までそんなこと考えたことも無かったけどさ。
子供の私は子供らしく、美しく攫われるお姫様に憧れていたらしい。うわ、マジでダサいな私。
この気持ちが若気の至りで恋心にならないように、嫉妬でコーティング。こいつ相手の恋とか、想像するだけで恐ろしい。
世界に愛された奴め。この大馬鹿野郎。

「私は傷つきました」
「ええ。なんでや。怪我したのはオレやぞ」
「慰謝料としてアイスを請求します」
「なんやたかる気なんか!」
「人聞きの悪い」
「ってかお前、帰宅部なのに寄り道してええん?」
「試験期間中は部活禁止なんだよ。知らなかった?遠山君」

一瞬首をかしげて、理解したらしく、思いっきり笑った。
なんや、それなら仕方ないな。それならこの遠山金太郎様がおごっちゃるわ。

その台詞。後悔するなよ。ガリガリ君じゃ済まさないからな。



***



焼けつく
焼け焦げる



「なんやもう、面倒くさいからパピコ半分こでええか」
「それだけはやめて」



家に帰ったら、クーラーがんっがんにつけて、今日を思い出しながら試験勉強をしよう。






















ボイラーたん本当にありがとう!
テニプリなんか全然知らない上に夢小説なんか全然好きじゃないのにこんな大作を書いてくれるなんて・・・うっ(感涙)よき友を持ったなあ。