窓というよりは透明の壁と言ったほうが正しい、ひとつの曇りもない一枚の巨大なガラスの向うでは、色とりどりのネオンの光が夜の帳一面に広がっていた。ラスベガスみたいだなと私は思ったけれど、勿論ラスベガスに行ったことがあるわけではない。それどころか日本から出たことすらなかった。殆ど呆然と、ラウンジの入り口に突っ立って口を開けていたら、後ろから元親さんに背中を軽く押された。私は咄嗟に履いているパンプスのかかとが後ろから見えないように身体の向きを変えた。はずかしい、と思ったのだけれど、それからすぐに、こんなときだけ羞恥を覚える自分の現金さに気付いて、もっと恥かしくなってしまった。私は普段小汚い路地や、饐えた匂いの染み付いた駅、ポン引きのお兄さんが沢山立っている歓楽街を通り抜けるとき、自分のパンプスのかかとが剥げかかっていることなんか少しも気にしないくせに、このような場所にいるときだけそれが矢鱈と気に掛かって仕方が無い。有名なホテルの隅から隅まで磨き上げられた、一点の汚れも赦されていない地上45階の、壁がガラス張りのラウンジも、地上から離れているというだけで、汚い路地や駅や歓楽街と本当は何もかわらないのに。私が俯いていると、元親さんは私の顔を覗きこんで、どうかしたか、と心配そうな目をして首をかしげた。私はなんでもないですと取り繕って笑った。カウンターに座らせられて出てきたお酒は宝石みたいな透明な桃色で、口をつけると甘い味がした。

私がそんなにガードの緩い女じゃない、と言っても、これでは誰も信じてくれないだろうか。でも、それは本当なのだ。どんなに親しくたって、男友達と絶対に二人きりで遊びに出かけたりしなかった。色恋沙汰は私には手のあまる問題で、あまり興味がない。なら何故元親さんに誘われるがまま、こんなところまでのこのこついてきてしまったのか。納得のいく答えを私は持っていなかった。ホームセンターの所為だ、とひとりごちる。

今日の夜は思えば失策続きだった。バイト先の女の子たちで飲み会をするんだと誘われて出かけていった先で、見覚えのない男たちが並んでいた。医大生なのだと説明されて、私が幹事の女の子に胡乱な目を向けると、彼女は苦笑いを零した。ごめん、合コン。そのお店は串揚げが有名な居酒屋で、並んで座る女の子たちは、分厚く塗ったファンデーションと、妙に気取った薄暗いオレンジ色の照明の所為で、昼間の数倍綺麗に見える。お弁当屋さんみたいだ。美味しく見えるようにオレンジ色の光を当てられた女の子たち。値踏みするような目を隠すつもりもない男たち。その空間で30分持ったことが、私に言わせれば奇跡だった。お弁当のひとつとなって、ひきつった笑いでくるくる変わる話題に相槌を打つ。女の子全員でトイレに立つとき、付き合いの悪さを厭われることを覚悟でこのまま帰ると言ったら、幹事の子は申し訳なさげに眉を寄せた。「そっか。解った、なんかごめんね無理やりつれてきちゃって」手を振りながら皆と逆方向の玄関に向かい、座敷を降りて靴を履いた。思わず溜息が零れた。



「よう。偶然だな」

はじめ、それが自分に掛けられた声だと思わなかった。俯いたまま立ち上がると、肩を思い切りつかまれて、顔をあげたら、元親さんがそこにいた。息がとまるかと思った。

「あ、こんばんは、」
「何してんだ?こんなとこで」

そのときのあのなんともいえない罪悪感の正体を、わかる人間がいるだろうか。私の心臓は早鐘のように脈打っていた。女子会だって聞いてたんですけどなんか合コンだったみたいで全然話題についていけないから帰ろっかなって、半笑いのまま固まった顔で、早口で捲くし立てた。何をそんなに必死になるのか、私はまるで裁判で釈明する被告人のようだった。

そうか、と彼は頷いた。
「俺も今帰りだから一緒に帰るか」

夜遅いと危ねえしな。元親さんはいつもの、人好きのする笑顔を浮かべる。日が暮れても尚明るいままの歓楽街を、ふたりで並んで歩きながら、元親さんは色んなことを話した。例えば彼が工学部の学生で、厨房で働くほかに交通整理のバイトもしていて、洋楽と機械いじりが好きだ、ということなんかを。元親さんのi-podには、知らない言葉の知らない音楽が溢れてて、なんだかひどく新鮮な感じがした。

歓楽街を抜けて駅が見えてきたところで元親さんが不意に、「そこのホームセンター寄っていいか?」と言った。私はいいですよと答えた。全国でチェーン展開している、本屋からペットショップまで入ったホームセンターだ。元親さんは店の中に入ると、私を休憩用のベンチに座らせて缶ジュースを渡し、ちょっと待っててくれ、と言っていなくなった。ベンチの傍は園芸コーナーで、平和な形をしたサボテンや、燃えるような真赤のシクラメンが所狭しと並んでいた。私はそこで既になけなしになっていた元親さんへの警戒心を完全に解いてしまった。ホームセンタというところは私になにかしら柔らかいイメージを抱かせる。ゴールデンレトリバーを飼っていて青いライトバンに乗っている幸せな四人家族なんかを。罪のないものばかり売っていそうだと思うからだ。本棚とか、植木鉢とか、犬小屋とか。

鋸も鎖も鉄格子も売っているんだって知っていたのにね。

5分ぐらいで元親さんは戻ってきた。わたし達は並んでまた駅のほうへ歩き出した。駅は酷く混雑していて、元親さんは何の厭味もなく私の手をとってすいすいと人混みをすり抜ける。駅の混雑ぐあいのわりに電車の中は閑散としていて二人とも座れた。

は酒が嫌いなのか?」
「そういうわけじゃないんですけど。親しくない人とわいわいするのは苦手ですね」
「へえ」

じゃあこれから二人で飲みに行かないかと元親さんが言って、私はどうしてイエスと答えたのか、全然解らない。だから、ホームセンターの所為なのだ。でももっと違う何かがあったのかもしれない。元親さんの言葉は私に他の選択肢があるのだということを忘れさせてしまうように思う。二つ先の駅で降りて、手を引かれて、聳え立つように大きな、有名なホテルに連れていかれた。45階のラウンジなんか、足を踏み入れるのも初めてで、三角のグラスに入った、ネオンと同じ色お酒は、居酒屋で飲むのとは全然違って、甘美な味がする。目を白黒させる私の隣で、元親さんはずっと太陽の下にいるみたいに笑っていた。



このひとはきっと、快活に、人のよさそうな顔で笑ったままで、女の子をベッドの中に引きずり込む遣り方なんか、100通りぐらい知っているんだろう。

どうして部屋予約しているんですかなんて聞く暇も無かった。覚束ない足取りを救い上げられて、エレベーターの上がる微かな浮遊感がしたあと、暗い部屋に押し込まれる。ぱちりと音がして電気のついた室内には必要なものがなんでもあった。テレビもパソコンも冷蔵庫も。お風呂はお湯をためるのに五分もかからないぐらいお湯の出がよかったし、シャワーの途中でお湯が冷たくなることもないし、枕は柔らかな低反発で、皺のないシーツと枕カバーは、今にも光を放ちそうなほど白かった。高級ホテルってすごい、と思った。でも、そのどれもが結局、私たちにはなんの役にも立たなかった。元親さんはテレビをつけなかったしインターネットも開かなかった。お風呂にも入らなかった。枕は使われなくて床に落ちてて、シーツはすぐに染みだらけになってしわくちゃにされて所在なさげにベッドの隅に追いやられた。

私は初めてだったのに元親さんに丁寧に有無を言わさず身体を開かれてわけわかんないぐらいよくなっちゃって最後のほうはもう苦しくてやめてやめてって泣いて頼んだのに元親さんはやめてくれなくて何度も何度も中に出した。恋人でもない男のひとにひどいことをされているのに全然いやじゃなくて私は自分がとんだ淫乱だと知った。元親さんのことがとてもとても好きだった美人なあの先輩に売女と詰られても返す言葉がないだろう。でも元親さんに抱かれてる間ずっと先輩のことなんかどうでもよくて、いま元親さんが彼女のことを思い出してなければいいってずっと思ってた。最低だ。私が別に悲しくもなんともないくせに思わせぶりにずっと泣いていた所為か、元親さんは顔をしかめて何度も耳元でって、漣みたいに私の名前を呼びながら、ごめんなごめんなって謝っていて可哀想だった。

私の咽喉が悲鳴も出せなくなって、ひゅーひゅーと我ながら気の毒な息を吐くだけになってしまうと、ようやく元親さんは私から出て行った。さびしいと思った。蛇口を捻る音がして暫くすると、元親さんは私を抱き上げてお風呂に入れた。私は疲れすぎて力が抜けていて頭を洗ってもらっても体を洗ってもらっても無反応で、元親さんはちょっと悲しそうでだけどすこし嬉しそうだった。それからホテルの洗面台に置いてあった、ビニールパッキングされた使い捨ての剃刀とシェービングクリームを使って私の下の毛を全部剃ってしまった。毛穴閉めねえと痒くなるからと彼は言って毛のなくなったところに冷たい水を掛けた。私が疲れて半分寝てて寝惚け眼のままどうしてこんなことするの、と聞いたら、元親さんはゆるい微笑を浮かべた。
「俺以外の男のところ行けねぇだろ?」
「わたしはここにいたいです」
すると元親さんは本当に嬉しそうにしてわたしにキスした。それがはじめてのキスだった。

それからベッドで懇々と眠って起きたらとっくに夜が明けていた。起き上がって目を擦っていると元親さんが私の頭を撫でた。私は顔をあげて元親さんにホームセンターで何を買ったのかと聞いた。

「包丁」

と元親さんは答えた。

「処女じゃなかったら殺そうと思ってよ」

ほら、見ろ、と誰かが頭の中で嗤った。

ホームセンターには包丁だって売っているのだ。元親さんのリュックサックの中にはホームセンターの袋に入った刃物が出番を待ちながら眠っている。殺しても良いですよと私は言った。元親さんは泣きだしそうな顔をして私を抱き締めた。海の中にいるみたいだと、思う。元親さんの指が唇を撫でて、温かくて視界が滲んだ。



がぶれる