今朝、日が昇るより早くに、雪が降り出しました。毎年毎年、そろそろと足音を忍ばせるようにして、冬は着実にこちらへとやってきます。奥州の雪は、一度降り出せば、止まることを知りません。昼を過ぎたころには、地面は白銀に覆われて、庭の躑躅も桜の枝も、寒そうに身を縮めて、重みを増してゆく冷たさに、じいと黙って耐えているようでした。 雪が積もると、寒さはいっそう激しくなります。お膳を下げる指先は、悴んで真っ赤になっています。こんな指が政宗様の目に触れては恥かしいので、脇を縮めて、袖で無理矢理隠しています。とは言っても、政宗様はさっきから外ばかり見ていらして、私がそんな瑣末なことを気にしていることなど、気にも留めはしないでしょう。でも、それは関係のないことです。小さな乙女心です。 雪はしんしんと降り続けます。政宗様はときどき、煙管を火鉢に打ち付けて、灰を落とします。鋭く固いその音さえも、雪に吸い込まれていくようでした。雨戸を開けいる所為で、部屋の中は木枯らしが遠慮なく入り込みます。身を切るように寒いのに、政宗様は着流しに綿の入った羽織を一枚だけの薄着です。片倉さまが御覧になったら、きっとお咎めになるでしょう。だけど、政宗様には気にする様子もありません。片倉さまも、いらっしゃらない。この部屋には私と政宗様の二人だけです。 私がお膳を下げようと立ち上がろうとするたび、横に目でも付いているかのように、政宗様は行くな、と言います。私はしかたなくお膳を下げるのを諦めました。どのみち洗い物は、もうそろそろ終わってしまうでしょう。私が洗えばいいだけのことなのです。真っ赤になった指を握って、私は下座に座りました。政宗様は小さく頷いてから、白い煙を吐き出しながら、格子の向こうの空を見ておられました。それから、煙管を火鉢の上に置いて、ゆっくりとこちらを向きました。政宗様の目は、普通の人の黒とは違う、特別な色をしておられます。時々自嘲したように、この方はご自分の右目を眼帯の上から突かれますが、私は政宗様に両目で見つめられたりしたら、きっと五秒と生きていられないでしょう。心臓が飛び出てしまいそうです。今だって、そうなのに。 政宗様は唇を薄く開いて、暫く煙管から流れる白い煙の筋を目で追っておられましたが、やがてぽつりと、まるで興味のないことを話すみような口調で、私に尋ねられました。 「お前の怖いものはなんだ」 私は困ってしまいました。私には怖いものが沢山ありました。あんまりにも多すぎて、怖くないものの方が少ないくらいです。夜の森も、蛇も、出刃包丁も、暗い厠も、山賊も、戦火も、槍も刀も、死んだ兵士も、兵士の死骸から具足を剥ぎ取る農民たちも。私は正直に、多すぎてわかりません、と言いました。私は臆病だと笑われると思いましたが、政宗様はただ小さく苦笑のようなものを浮かべただけで、いちばんは、と仰られました。 「いちばん、ですか」 「そうだ」 いちばん怖いもんだ、と政宗様は繰り返しました。今まで一番怖かったことはなんだろうか、と私は考えました。親に捨てられたときでしょうか。私は間引かれた子供でした。この城の近くの山に、ここでまっていなさいといわれて、それきり置いていかれたのです。だけど、あのとき私はそこまで恐怖を感じたりはしませんでした。何故でしょう。母に教えられた、お月様に願いをかける御呪いを、信じていたからでしょうか。母も父ももう迎えに来ないだろうことは、なんとなくわかっていたのに。それとも、誰もこないとわかっていたから、怖くなかったのでしょうか。私の頭は巧く回りません。結局結論が出ずにもじもじとしていると、何時の間にか傍に、政宗様がいらっしゃっています。私は驚いて飛びのきそうになりましたが、政宗様が私の手を握りこんでしまったので、そうはなりませんでした。「冷てぇ」と政宗様はお笑いになられました。私は真っ赤な、ささくれだった手が恥かしくて、手を引っ込めようとしたのですが、政宗様は離そうとはしてくれません。 「褒めてんだよ。綺麗な手だ」 「あかぎれだらけのみっともない手ですよ」 「綺麗だ」 政宗様は私の手をとって、指先にちいさく口付けられました。一瞬で身体中の血液が沸騰したように熱くなります。「なななな、」と、見っとも無く焦る私に、政宗様は咽喉を鳴らして笑いながら、「なあ、いちばん怖いもの、なんだよ」と囁きました。 私は時々自分が無敵になったような気がすることがあります。あの、親に捨てられた月の晩もそうでした。そして今も。私は今なら、何にも怖くはない気がしました。ただひとつのことを除いては。 「・・・笑わないでくださいね」 「場合によるな」 「・・・。政宗様が、を要らないと言ってお捨てになることが、は一番怖いです」 政宗様は、吃驚したように目を見開いておられました。呆れてしまったのでしょうか。私は途端に恥かしくなって、政宗様の手が緩んだのをいいことに、お膳をさげてしまうことにしました。お膳を持って立ち上がると、かちゃん、と小さな、漆器の触れ合う音がしました。 「wait、、此処に居ろ」 障子に手をかけた私に、政宗様はそう仰いました。恐る恐る振り向くと、鋭い目が一直線に私を睨みつけています。命令です。死ぬほど羞恥を覚えながら、私はしかたがなくお膳をおいて座りました。心持、政宗様から距離を取りながら。きっと呆れていらっしゃるでしょう。笑いながらからかわれるかもしれません。 でも、見上げた政宗様は、予想とはかけ離れた顔をしていらっしゃいました。 「、お前は俺が怖くねえのか」 今度は私が驚く番でした。今日は、なんでしょう、変な日です。何故私が政宗様を怖がる必要があるのでしょう。この方がいらっしゃらなければ、あの月の夜に私を拾ってくださらなければ、私はここに存在すらしていないのです。それに、政宗様はお優しい方でした。そうでないところもあったでしょうけれど、私はそれを知りませんし、知ったところでなんだというのでしょうか。政宗様は私の世界の全部なのです。 「に怖くないものがあるのは政宗様がいらっしゃるからです」 と、私は言いました。頭の悪そうな言い回しです。でも、他に言い様がありませんでした。実際そうなのです。私は政宗様のお陰で、満月を見れば政宗様に出会った日のことを思い出し、雪を見れば政宗様が中々布団から出てこないことを考え、お料理を作るたびに政宗様のお料理が食べたいなあと思い、政宗様がいい気持ちでいられたらいいなあと夢見てお掃除に励むのです。とにかく毎日政宗様のことばかり考えているのです。 「」 政宗様は、掠れた声で、私を呼びました。 「おいで」 私がそっと、膝立ちのまま近寄ると、政宗様は私の手を思い切り引いて、そのまま息が詰るほど抱き締めました。堅い胸に額が押し付けられて、苦しいほどです。私の心臓は爆発寸前に高鳴っていましたが、政宗様の心音は、雪の降る音のように静かでした。 「政宗様、」 「いちばんこわいものは、なんですか」 私は思わず尋ねてしまって、それからすぐに、酷く不躾な質問だったと気付きました。政宗様が、ご自分の怖いものなんて、仰るはずがありません。第一、お殿様が一介の侍女に尋ねるのとでは、全く状況が違います。ですが、政宗様は、それを聞くと、私の頭をいっそう強く抱えこんで、耳元に顔を埋めました。 「怖ぇモンばっかだ」 「全部」 「俺が、怖い、」 政宗様はそう囁いて、私を床に組み敷きました。私の目には、さっきまでは影もなかった涙が浮んで、流れました。何が、この方をそこまで怯えさせるというのでしょう。この方が、どうしてそんなに脅かされなければならないのでしょう。皮の堅い大きな手が、私の首に掛かります。「怖いって言えよ、」と、政宗様は仰います。私は言いません。少しも怖くなんか、なかったからです。黙っていると、政宗様の指に力が篭って、少し苦しい。窓の外には雪が降っています。夜空にかかる雲の向こうには、月が光っているのでしょうか。私は、見えもしない月に、遠い、気の遠くなるほどの昔に、母に習ったおまじないをかけました。それから手を伸ばして政宗様の背中に触れます。大きな背中です。私では、とても覆いきれない。私は、祈ることしか出来ない、とても無力な娘でした。 「、いま、何考えてる」 「、まさむねさまが、おしあわせで、いらっしゃるように、つきにねがっておりました」 私がそういうと、政宗様は、微かに微笑んで、私の首から手を放して、私の背中をすっぽり包んでしまいました。肌の熱も忘れるほど、強い力です。濃い茶色の、柔らかい髪が、ちくちくと首筋をさしました。 私は、政宗様の髪を撫でて、小さく頬に口付けました。それから、唇に。 しょっぱい味がしました。 雪の夜
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