正確にはいつだったか忘れたけどたしか中二の夏、同じクラスの田中くんが昼休みに、「桜たんはトイレなんか行かない!」と絶叫して教室内は騒然となり、山本が苦笑、俺は固まり、獄寺くんはケ、とさも人を小馬鹿にしたような息を吐いた、というようなことがあった。桜たんとは当時絶大な人気を博していたアイドルの菊桃桜で、きもいアイドルオタクの烙印を押された田中くんは只でさえ苛められ気味だったのがその事件からさらに拍車がかかり、汚水を浴びせられたり、足を引っ掛けられたり、授業中あたるとクスクス笑いが起こったり、つまりそれまでオレが引き受けていたような嫌がらせを受けるようになってしまった。元祖虐められっ子のオレは他人事とも思えず強引に持たされた鞄の半分を持つのを手伝ったり、体育着をかしてあげたりした。田中君は分厚い眼鏡にちょっとぽっちゃりしていて明らかにオタクだったが放してみるととてもいい人で頭も良かった。
そういうわけでオレは今も田中くんとは親交があって、年賀状によると卒業後の田中くんはなんと名門の私立高校に合格して推薦で一流大学に入り、今は法務省?とかそういうよくわからないが凄いところで働いているという。彼は中学の頃から体重が29キロも減って激ヤセし、今ではイケメンエリートとして六本木とか銀座で接待と称してブイブイ言わせているらしい。いいことだ。うらやましい。田中くんは夜な夜な銀座や六本木のクラブで美人なおねえさんを両脇に侍らせているのだろう。オレが侍らせられるものといったら獄寺くんか、獄寺くんか獄寺くんか、獄寺くんだ。要するに獄寺くんだけだ。オレは悲しくてちょっと泣きそうになった。別に獄寺くんが嫌なわけじゃないんだけどさあ。偶にはカツ丼じゃなくてプリンが食べたいよね。
さて件の田中くん、先週なんと菊桃桜と婚約した。衝撃だ。昨日、電話のむこうで照れくさそうに笑う田中くんはオレにこういった。
「アイドルでもトイレ行くよ。俺、馬鹿だったなあ」
田中くんは現実に到達したらしい。それでも幸せなんて素晴らしいことだ。それが大人になるということだろう。うちの右腕にも見習わせたいよまったく。
なんたって獄寺くんはオレがトイレに行かないと考えているのだ。オレがそれに気付いたのは十八の冬の寒い朝だった。あんまりショックだったので日にちまではっきり覚えてる。うっかり家を出る前にトイレに入り損ねたオレは、通学途中の道でぶるぶる震えながら、トイレ行きたい、と呻いた。今思えばこれが間違いだった。呻いたって目の前にトイレが現れるわけじゃないんだ、黙っていればよかったのに十八のオレ。震えるオレの左隣で山本は「大丈夫かー?もうすぐ学校だから」というようなことを言って俺を励ました。いいやつだ。それに引き換え獄寺くんときたら。彼はそのとき端正な顔にさも不思議そうな表情を浮かべて「十代目がトイレで何をするんですか?」と有得ない電波発言をした。山本笑顔のままどん引き。オレは混乱しすぎて尿意なんか忘れた。だってきみさ、田中くんこと小馬鹿にしてたじゃない。何なの?というか可愛い女の子がトイレいかないって思うのはちょっとあれだけどまあ納得できるが、オレ男だよ。野郎が野郎にトイレいかないって信じてるってもうそれ異常通り越して病気だよ。

それからもう7年が経過しているが獄寺くんの偶像崇拝が破れた気配は今のところ無い。物哀しい想いにふけるオレの横で獄寺くんは甲斐甲斐しくオレのためにコーヒーを淹れている。これが京子ちゃんだったらなんて贅沢をオレは言わない。もう女の子だったら何だっていい。田中くんの電話をとってからオレは寂しくて仕方が無かった。癒やされたかった。可愛くてオレがトイレ行くことを知っててコーヒー淹れるのが巧い女の子を獄寺くん、早く用意して!と叫びたかった。そんなことしたら右腕は心労とショックで倒れてしまうに違いないので黙っていたけど。
「十代目お疲れ様です!珈琲入ったっスよ!」
と不必要な大声量で、満面の笑みを浮かべて獄寺くんは言う。一昔前のファンクラブみたいだ。今唾入んなかった?とげんなりしながら、ピアニストのような長い指で差し出されるカップを受け取って、ありがとうと言ってから口をつけた。多分この人はオレが綺麗なものだと信じていなければ生きていられないんだろうなあとオレは思う。 誰が淹れるより美味しいと認めざるを得ないエスプレッソを一口飲んだ。にこにこしている獄寺くんはファンの女たちが見たら卒倒するぐらい美しくてどうしようもない。バッカじゃないだろうかと思いながら、苦味とともに胸に広がる優越感をどうすることも出来なかった。



(みんな綺麗なものがすきなの)