愛が戦場を作る



子供の少ない時代だ。希少なものがより価値を有するように、平成の生まれらしく俺もあいつも親の愛を受けることに慣れた子だった。いやあれは俺以上にかわいがられ手塩にかけて育てられていただろう。そんなわけで、だから発覚したときはもう駄目だなこりゃ、と。諦観。掛けた手間に見合う見返りがないとき、怒り狂うのは他人同士の事例に限定されたことではなく、親子の場合も同じことだ。愛が、与えるものだというのはきっと嘘に違いない。求めるから、与えるのだ。俺もあいつも親に愛されていたが、それは無条件に幸せを希求していいということではなかった。求めた幸せが普通の形をしていないことは責められることだった。現に母親は泣き叫ぶ。父親が罵倒する。俺達に向けられた瞳に浮かぶのは困惑と混乱と憎悪。八つの瞳に晒されて俺はそのとき戦争がなくならないのも無理は無いなあ、なんて、とても馬鹿みたいなことを考えていた。だって俺の親は善良だったのだ。あいつの親も温厚だったのだ。だけどその部屋ではまるで地獄の熱風に煽られたかのように、髪を振り乱し、泣き叫び、物を投げて怒鳴っていて、ここで俺やあれが死なないのは銃や刃物がないからで、もしそこにそれがあったら、俺の親はあれに向けて引金を引き、あれの親は俺の上に刃物を振り下ろしただろうことは、想像に難く無い。それは戦争だった。きっとこの普通の善良で温厚な人々がどこかで誰かを殺しているんだろう、そりゃあ戦争などなくなるわけがない、と俺は思ったの。です。世界に俺とお前だけなら戦争など起こらないのにね。俺達は善良でも温厚でもないかわりに完結していたのだ。俺はお前以外のことなんてどうだってよかった。ほんとだよ。

しょうがない話だなあ、と思ってる。涙も流れたような気がするが、傍にいつづけることなどは、とうに、もしかすると始まった時から、ずっと諦めていたことだったので、どうということでもない、事務的に流されたようなものだ。俺は俺の親すらどうでもよく思われてた。ただあれは自分の親を棄てることはできないだろうと考えていたので、これあいつを以上苦しめるつもりはないというだけだ。どうせ約束された終わりだったのだ。俺たちは、所詮、何も残すことの出来ないつがいであったので。爪が食い込んで血が滲むほどの力で俺の肩を掴む母の手は煩わしく、そんなに押さえなくても逃げやしねえよと呆れてた。大体どこに逃げるというんだ、一人で。あれがいないなら、もうどこにいたっておんなじことじゃないか。罵声の応酬の末、二度と会わないでとあいつの母が言い、俺の母があいつに向って同じような事を叫んだ。父親ふたりはそれぞれ何か、よくわからない、意味もないようなことを怒鳴りあい、物の散乱する部屋には音が溢れて、俺は疲れて、誰かが投げたために割れたロイヤルコペンハーゲンのティーソーサーをぼんやり眺めてた。キナリのカーぺット、粉々の食器、金のスプーンが落ち、シュガーポットの破片、角砂糖の散乱。西洋画家が絵にしたがりそうな五月蝿い光景だった。窓の外の小春日和の黄色い日差しだけが柔らかく、まるで夢みたいだった。部屋で静かなのは俺とあいつの二人だけだった。物ですらそこいらじゅうから引っ張り出され、投げ出され、しっちゃかめっちゃかに音を立てたから。何を見渡しても気が滅入る。下らない。

あいつと目を合わせると父親に殴られるので下を向いていたのだが、しかしこれが最後になるかもしれないと思って俺はその姿を見ようと顔を上げた。伏せられた長い睫に彩られた、射抜くような緑の双眸が最初に目に入って、ああきれいな顔だなあ、といつもと同じ事を思った。美しい男だ。そんなに美しい男を俺は他に知らない。女も知らない。きっと生涯知らぬままだろう。それが美しいことは、俺には最早記号化されたことなのだ。あいつだから、美しいのだ。あいつは母親に縋られるように肩を抱かれて居た。その肩幅は広すぎて、あの華奢な母親は上手に息子を包み込めているとは言い難かった。俺ならもっとうまく抱きしめる、と俺は思った。馬鹿な話だ。だけど本当のことなんだ。俺はあいつを幸せに出来る絶対無二の人間なのだ。あいつが俺にとってそうであるように。

あいつは俺の視線に気づいて俺をじいと見つめた。瞳孔が大きくなる。俺はそれで笑ってみせた。終わりだね、楽しかったね、ありがとう、気持と近しい言葉はどれも陳腐すぎて、結局うまくいえないので、無理に笑ったのだ。そうそう、それと、愛してる。きっと壊れたような笑顔だっただろう。だって本当に一番言いたかったのは一緒にいたいだったから、絶対に顔に出ないように必死で、変な笑顔になるのも無理は無いんだ。

俺が戦争のさなかに笑うので、あれは目を見開いて、それから一度目を閉じて、左目から一粒の涙を零して、拭うことも無いまま、首を左右に振った。それが何を意味するのかわからないうちに、あいつは俺を呼んだのだ。「高尾」俺がこの世でもっとも愛した響き。今までずっと静かだったものが、急に明確な意図を持って声を出したので、部屋はそれまでの喧騒が嘘のように、一瞬で静謐に満たされる。あいつの声には不思議な力があって、それはいつも相手に言う事を聞かせた、殆ど暴力的な力ですらあった。あれに指定されない誰もが声を出せないらしかった。俺は貼ったように笑ったまま、何、とかえした。さよならをいわれると思って。でもその声には微塵の迷いもなく、それが規定路線だったとでも言わんばかりの口調で、出てきた言葉は俺のセンチメンタルにぼやけた頭を思い切りぶん殴って現実に引きずり出した。




「一緒に死ぬぞ」



「ああ、うん」



*



それでどんな手を使ってでも絶対に死のうと思っていたら親が折れてくれたんで、今一緒に住んでてすげー幸せです。仲良くやってます。やったね真ちゃん。そうだな高尾。