三年生を送る会の後だった。卒業や引退の晴れ晴れとした感傷など微塵も感じられぬまま黄瀬はベンチに座って組んだ指に顎を乗せ宙を見ている。期待を裏切られて不機嫌だというのに空気を読まない女どもに追い回されて逃げてきたのだった。伏目がちの双眸は美しく黄瀬の言うところのバカ女が見たら興奮のあまり鼻血でも出しそうなほどだったが、部室には彼のほかには緑間しかいないので、ここでは全くの無価値である。緑間は黄瀬の美貌に多分世界で一番興味がなかった。彼にとって黄瀬の顔はたんに黄瀬の顔であって、美的評価の対象ではないのだった。緑間が今黄瀬について関心があることといったら先ほどから黄瀬の右足が地面を叩いて規則正しいリズムを刻んでいることのみである。五月蝿い。
「やめろ。うるさい」
「喋ってないっすよ」
「足だ馬鹿め」
無意識だったのだ。黄瀬は不満げに唇を尖らせつつ足を組んで体勢を変えた。緑間はそれを横目に一瞥し、溜息を吐いて資料整理に戻る。眉間には普段よりも濃い皺がくっきりと刻まれていた。機嫌が悪い。だが、彼の機嫌の良し悪しを判断できる人間はここにはいなかった。緑間が黄瀬の顔に興味がないのと同じように黄瀬は緑間の機嫌に興味がないのである。自分の苛立ちに精一杯だったし、そもそも緑間に機嫌のいい日があることすら知らないのかもしれない。二人分の苛立ちを充たした部室の空気は最悪で、後輩など入って来ようものなら五秒で泣きながら逃げ出したに違いない。そしてそれを二人は、二人とも殆ど無意識に、ここにいない、ここを去った、あの影の薄い男の所為にするだろう。救えない話だった。誰にとっても幸いなことに、気の毒な後輩が忘れ物を取りに来るというようなこともないまま、沈黙は維持され続けたが。10分の黙殺の後、黄瀬は恨みがましそうに緑間を睨んで言った。
「・・・なんで此処にいるのかとか聞かないんスか?」
「興味がないのだよ」
緑間は反射的にそう返したが、でまかせだった。興味関心以前に、緑間は黄瀬の苛立ちや退屈さの原因を知っていたという、それだけの話である。黄瀬はベンチから立ち上がって、そこいらに散乱する椅子をずりずりと引き摺ると、緑間の机の傍に置いた。オイ、と明らかに怒気の篭る声を無視して、彼は緑間が広げていた日誌や、スコアや、対戦相手のデータなどを押しのけて机につっぷした。口元から「あ」と「か」の中間のような音が漏れて、伸びて、変わって、やがて意味を結んだ。
「――くーろこっちーい―・・・」
とても虚しく響いた。緑間は一瞬強烈な怒りを覚えたが、すぐにそれは萎んで、結局何もいわなかった。捨てられた犬を気の毒だとも思っていた。周りが思うほど特別冷淡でも薄情でもないのだった。黄瀬は相変わらず顔を伏せたまま、ぐずぐずと身を捩って泣き言を言う。三年生を送る会ぐらい来ると思ったのに。退部届け一枚残して跡形もなく消えたチームメイトとの再会を、黄瀬がこの日に賭けていたことを緑間は知っていた。絶対来るっすよ、としつこいほど聞かされたのである。緑間は考えを打ち消すように短い溜息をついて眼鏡を押し上げた。
「来るはずがないと言ったはずなのだよ。退部した部員が送る会なんぞに出るものか」
「いいじゃないッスか。別に。俺らどっちみちもう引退して部活出てねえんだし、退部したとか皆知らねえし、黒子っちは影薄いし、わかんないッスよ。だから、最後なのに、・・・」
尻すぼみになっていく声を聞きながら、寧ろ逆だろうと緑間は思った。全中が終わって部活に出ることがなくなって、在籍が形骸化するとしても、それでも黒子はバスケ部に籍をおいていたくないのだ。それはつまりもう残った時間を自分たちと共に過ごす気がまるでないということで、だから黒子が三年生を送る会なんてものにでるわけがないのだ。送られる間でもなく彼は去った。戻らない。絶対に、永久に、二度と、決して戻らない。緑間は説明してやろうか迷ったが、やめた。黄瀬が傷ついたと更に喚くことは目に見えていたし、なにより緑間だって、そんな事実を音にして再確認したくはなかった。緑間は黄瀬ほど暢気ではないので、はじめから黒子が来ないほうに賭けていたのだが、それでも薄い影を視界に求めて体育館を見回さないわけにはいかなかったのだ。彼もまた、黒子の姿を体育館に見つけられなかったことに、しっかり傷ついていたのである。
「黒子っちどこの高校いくのかなあ」
黄瀬は懲りずに呻いている。桃井がそのうち掴むだろうと言おうとして矢張り結局、言わなかった。黒子の未来が自分たちの誰とも同じ道の上にはないことだけは確かだった。「関係ないだろう」と吐き棄ててついでに黄瀬の頭を叩こうと思っていたのに、そのまえに黄瀬が彼を見上げた。緑間っちだっておんなじ学校行きたかったくせに、と形のいい唇が恨み言のように言う。緑間は絶句して、暫く返す言葉を思いつくことができなかった。