「ひさっしぶりやなあ」
偶然を装っているがその素振りから既に嫌がらせとしか思えなかった。目の前を急行電車が速度を落さずに通り抜けていかなければ、飛び降りて反対側のホームに逃亡を図っていたかもしれないと考える程度には最悪の邂逅だ。花宮は制服のポケットに手を突っ込んだまま不機嫌を遺憾なく前面に押し出して眉間に深い皺を寄せ10メートル離れていても聞えそうなぐらい大きな舌打ちをした。つい先日、大学で教員免許を取ったというだけの理由で監督に据えられていた救えない愚図を散々イビリ倒して追い出したばかりだった。煩わしい障害を一つ取り除けたことで近年稀に見る清々しさのうちに日々を過ごしていたのである。感謝や喜悦より不満や苛立ちが先に立つ性分の彼には極めて珍しいことで、一週間は持つかなと陰で余計なことを言ったのは花宮のチームメイトの原だった。その目測は見事に外れて実際、三日と持たなかったわけではあるが。不愉快な遭遇は彼の機嫌をレバーを引くように容易く最低まで下げた。花宮の言うところのサトリの化け物は薄汚れた黄色のベンチから重そうに腰を上げ、卑猥なカラーの広告を載せたスポーツ新聞をくるくると丸めてズボンのポケットに突っ込むと、手を上げて気のない挨拶をした。礼儀上仕方なく会釈を返す。見ると左耳にはまだラジオに繋がるイヤホンを嵌めている。競馬か。金を賭けていないことなど言い訳にもなりはしない、高校生のやることか。
「お前かてどーせ暗い部屋でソドム百二十日とか読んどるんやろ」
まだ何も言ってない。この妖怪野郎と胸中で悪態をつきながら花宮は歯を食いしばる。マルキ・ド・サドは確かに読むが大して好んでもいなかった。サドのするようにただただ弱く力のないだけのものを踏み躙るより強くて傲慢な人間を屈服させて絶望に落すほうが何千倍も楽しい。しかし妖怪は花宮の読書事情に関してそれ以上言及しなかったので彼は反論することもできなかった。サドを読んでいるのも大抵部屋が暗いのもただの事実なのだった。花宮にとっては不都合なことにこの妖怪は嫌な現実だけを上手に選んで突きつける。そのくせ真実などはきっと死んでも言わないのだ。代わりに電車遅いなあなどと無意味に呟いて電光掲示板を見上げる。きっと何処かで誰かが飛込み自殺でもして電車を止めているのだと花宮は思う。
「あー・・・せや。花宮ァ。うち今年キセキの世代のエース入ってくんねん」
スゴイやろーと新しい玩具を自慢する子供のように妖怪が笑った。きっとそういう演出なのだろう。だからなんですかと花宮は返す。頭の中ではよくやるぜと、厭味でもなく素直にそう思っていた。あれだけ煮え湯を飲まされた敵を。あのクソ生意気なガキを。そうまでして勝ちたいか。そうなのだろう。手段を選ばないという点で彼らの間には差がなかった。目的とやり方は違うが大したものだ。もっと驚けやと男が花宮の背中を軽く叩く。気安く触んなと肘で振り払い、そんなチート機能使って勝ってどうしたいんだよと漏らした。一瞬の沈黙があった後、失言に気付いて横目で隣の妖怪を窺うと、彼は前を向いたまま、苦笑に似たものを零す。
「お前はホンマにバスケ嫌いやなァ」
これもどうせ演出だ。花宮のプライドでは否定ができないことを見越した上での、最高の嫌がらせだった。花宮は結局、今でもそれを嫌いだとは言えないままなのだ。口の中は苦虫を噛んだような味がする。電車はいつまでもやってこない。


(折る価値のある膝もない)