お前相手なら飛車角落ちでもいいなと言うと彼は指先で二枚の駒を摘み、いつも駒を入れている木製の小物入れの蓋にそれを落とした。将を射んと意志を持って打ちつけられるときよりもずっと軽い、焚き火の弾けるような音がして、盤上を追われた兵士は底の浅い木箱の中で力なく重なり合い、羽虫の死骸のように見えた。無用になった駒には一瞥もくれぬまま彼は盤上の歩を進める。黒子は返す言葉を何も見つけられなかったので、未成熟の白い指先が迷いなく駒を指しているのをただ眺めていた。普通なら癪に障る言い回しに反論しようにも、黒子の手には武器がひとつもなかった。彼の言葉が示す意味を黒子は今ではもう間違うことすらできない。それは精密機械のように恐ろしいほど正確無比で、いつも単純で適当な事実だけを指した。つまり、それでも勝てるということ、それだけだ。裏に何の感情も籠められてはいない。侮蔑でも軽視でもないただの事実を前にして、黒子は最早無力だった。ぼんやりと静かな戦場を見つめて、彼に促されるまま駒に手を伸ばす。疲弊が身体を蝕んで指先を折ることすら億劫だったが、仕方の無いことだと諦めた。この部屋で黒子がほかにすべきことはなにもなかった。
「疲れているな」
と彼は静かに言った。駒が動く。パチン。疲れもすると黒子は思った。一日中、目前で起こること全てが心労の種だった。今では楽しい筈のことすら黒子に喜びを齎さない。彼らの周りを覆う空気は明らかにもう駄目になっていた。朝起きて学校へ行き授業を受け部活をして下校をする、黒子と彼らの関るあらゆるものが。いくら消費期限のラベルを書き換えても中身が腐っていたらどうしようもない。楽しみは既に枯渇し、親密さは飽和して、心地よい時間は終わっていた。どのような意味も含まない、ただの終わりだった。ずるずると引き延ばされ続けているだけで、どんなスタートラインでもない。最後に残って横たわっているのは過去の美しさとそれに起因する離れがたさで、まるで石造りの棺桶のように重々しくて不吉なものだった。引き摺りながら歩くにはあまりにも重い。あんなに楽しかったなんて嘘みたいだった。何もかもが夢想だったと言われたほうが納得も容易かっただろう。実際、それは殆ど夢だったのだ。夏は刻々と力強さを増し、景色ばかりが鮮やかだったが、黒子には目の前の風景に色がついていることが不思議だった。砂を噛むような日々なのに、いくら待っても視界は灰色にならない。あまりに眩しい。楽しかった日々のほうが記憶から遠のいてかすんでいく。どうしてこんなことになったんですかと黒子は呟いた。指で押しだされた黒子の駒は音も立てずに盤上を進む。白色の爪の先に眼をやったまま、こんなこと、と彼は鸚鵡返しに尋ねた。笑っているような響きを宿していた。
「行き着くべきところに行き着いただけの話だろう。何も間違ってなどいない。黒子、お前は一体どうなりたかったんだ?」
「少なくとも、こうはなりたくなかったです」
「らしくもない台詞だな。嫌がるだけなら犬でも出来るが」
悠然とそう言いながら、彼は黒子の金将をするりと掬い、空白に自分の歩を進めた。この分なら飛車角金銀全部抜いたって良かっただろうと黒子は思う。それだって彼なら勝てたに違いなかった。もしかしたら歩だけだって。パチン。狙っていたことを知っていたかのように彼の銀将は動いて黒子の角を奪った。これは使わないでおいてやろうと呟くと、先ほど自分が放棄した駒と同じ蓋に角を落とす。彼はいつも穏やかに相手の四肢を切り取っていく。そして黒子は脳裏に死を覚える。次は飛車を貰おうかなと静かに、悪意もなく、息をするように。眩暈を感じた。頬杖をついて盤上に視線を落としている男の顔がぐるりと空気に混じるように歪む。気分が悪い。きっとうまく眠れていないためだろう。それでも勝負を投げなかったのは、多分意地のようなものだった。右手で口元を押さえたまま、黒子は駒を動かした。戦略など無かった。そもそもその程度の腕しかないのだ、考えることにあまり意味はない。
「おや」
驚きと愉悦のあいの子のような声がした。強いて名前を定めるならば感嘆だろう。黒子の銀将は彼の桂馬に手を掛けたのである。しかし驚いたのは寧ろ黒子だったかもしれない。彼から駒を奪えたことなど殆どなかったからである。歩兵以外ならば初めてかもしれなかった。考えることにあまり意味はない。黒子は今しがた自分で確認したばかりの台詞を脳内で反芻した。そして掌に載せた彼の桂馬をまじまじと見つめる。
桂馬?
暫くして唇が勝手に震え出した。
「赤司くん」
「何だ」
「僕はもういりませんか?」
「誰がそんなことを言ったんだ?」
王手だ。そして彼は吐息で笑った。黒子は呆然と盤上を見つめたが、そんなことはするまでもないことだった。彼が王手だと言ったら、本当に王手なのだ。手の熱に温められた桂馬はするりと机の上に落ちた。軽い音がして一度はねた。
「誰も言ってません」
「ならそういうことだろう」
意味のないことを言うな。彼は駒を集めて木箱に戻すと蓋の中に残った駒を混ぜて閉める。黒子が桂馬を拾って差し出すと思い出したように受け取って、だけどそのままポケットに落とした。そうして黒子に行かないのかと尋ねる。黒子は言われたまま立ち上がって扉へ向った。あまり考えすぎるなと背後から声をかけられて一度立ちどまったが振り返る必要はないように感じてそのままドアを引いて外に出る。悄然と廊下を歩いて、途中で込上げてくる何かに耐えられず黒子は両手で顔を覆った。吐き気に近かった。意味のないことだって?酷い話だ。本当に。彼は質問に答えてくれなかった。彼は本心を言わないことはあっても、けして嘘はつかないのだ。答えなかったのは、答えたら終わりだったからに他ならない。そういうことだった。必要はないのだ。誰もそう口にしていないことなどなんの救いにもならない、とんだお為ごかしだった。いらないと言われたほうがマシだったとすら思う。だってそうじゃないか?黒子はバスケットが好きだった。嫌いだなんて嘘だ。外に出て誰かに混じってボールを取り合えば、すぐに楽しさを思い出すに違いない。それでも嫌いだと呪いのように思い続けているのは、彼らを好きでいるためだった。黒子は彼らを嫌いにならないために大好きなことを大好きだと思うことを放棄したのだ。自分を必要としない人々を、好きでいるために!怒りに似た感情を握り締める。

だけど一番救えないのは、彼ですら、あの楽しかった日々のことをどうやら微かに覚えているらしいことだった。考えうる限り最悪の事態だったけれども、それ以外に、彼が自分を傍においておこうという理由がない。彼なら、黒子は駒として不必要だと、そう告げても良かったはずだった。ご丁寧に、黒子のしむけたことである。だのにあんな急ごしらえの言葉で誤魔化してしまうなんて。僕に決定権を与えないでほしいと黒子は思った。こんなのは本当に酷い、僕が一番終らせたくないものが、僕が終りだというまで終らないなんて。