本陣めがけて突っ込んでくるそれを、彼は幔幕のうちから無表情に眺めた。どよめき慄く味方を綺麗に無視して、草地にしっかりと付けられた足は、根を張っているかのように少しも動かない。涼しげな目元から放たれた視線は鋭く、槍を突き刺され右足以外の四肢をもぎとられながら、なおも前へと進み続ける獣を射抜いている。あの様子ではここまではこないだろう、と誰かが、口元を引き攣らせるようにして笑いながら、そう言った。獣への恐れを隠しきれていない笑い声が追従する。彼は笑わなかった。いや、あれは、来るだろう、ここまで。胸の中でひとりごちて目を閉じる。差し迫る血の匂いは僅かばかりの動揺すら齎せぬまま、懐旧は遥か過去へ彼を導く。




もうそれがどれほど昔の話だったのか彼には定かで無い。酷く遠い思い出である。実際の年月なら大した長さでもなかったのかもしれない。ただそのきらめくような日々は、二度と戻れはしない場所にある。彼にも、あの獣にも。二人は嘗て、同じ学び舎にいたのだ。学生時代の彼は、押しも押されもしない、将来を嘱望された優等生で、絵に描いたような正しい天才だった。獣は、その頃まだ辛うじて人の体裁を保っていた。頭は壊滅的に悪かったが、あれもまたある種の天才ではあった。強かったのだ。狂気的な強さだった。全てを飲み込み塗り潰し叩きのめすための強靭さを男は生まれながらに備えていた。


二人はそれぞれ、比べられることはないが、同年の生徒の中では、圧倒的な才能の塊であった。二人とも、一対一の勝負なら誰にも負けないだろうと自負していた。お互い以外ならば、である。彼らは、仲が良かった。お互いが一番の親友というわけではなかったが、馬が合ったし、楽しいことが好きだった。喧嘩もしなかった。ただ彼にはふと、まるで太陽が翳るかのように、自分の力と相手の力のどちらが上なのかと考えてしまうことがあった。それは自動的な疑問だった。敵意というにはあまりにも淡く、不思議な意識だったが、相手も自分に同じような意識を向けているのだと彼は知っていた。たった一度だけ、彼らはそのことを話したことがあった。桜が咲いていたように思うから、きっと春だったのだろう。


「仙ちゃん」
「なんだ」
「私と仙ちゃんやりあったら、どっちが勝つかな」
「やってみなければ、わからないさ」


だよなあ。と、その頃はまだ人であった男は言い、縁側に横たえた身体を捩って、右手に持った団子を口に突っ込んだ。彼は黙って本を捲くった。そうして彼らは卒業し、学園を出て、それぞれ別の城に就職した。




いつかこの日がくることを、彼はずっと心待ちにしていたように思う。己が敷いた陣形。敗色の濃くなった敵方は退却を始めていたが、獣のようなかの戦忍は、命令を無視して、単身本陣へとつっこんできた。幔幕を越え、唸り声をあげながら、もう目もとうに見えていないであろうに、口に咥えた苦無の鋩で正確に彼を貫こうと咽喉笛を狙う。刀を振り回したり、転げまわったりと忙しい味方どもの中で、彼は相変わらず座ったままだ。どちらにせよ同じことなのだと彼は思う。この速さ。抜いた刀に鍛鉄が打ち付けられて耳障りな金属音がする。口で咥えているのに。彼は立ち上がって応戦するが、力で押し負ける。白刃から逸れた苦無は彼の白い皮膚を裂き、頚動脈から鮮血が噴出す。彼は笑う。恐らくは、嬉しくて。待っていた。やっと。

「見事だ」

小平太。勝負はお前の勝ちだが城はやらん。そう彼は言い、薄く微笑を浮かべたまま、地面に崩れる。正確な狙いで負わされた傷は一瞬で彼を死に至らしめる。


獣は、彼がそうしたのと同じように、慄いて隅に寄る武者たちを無視して、今しがた自分が切り裂いた人間を見た。瞳が驚いた子供のように丸くなり、すぐに閉じる。見事職務を全うし、息絶えた総大将の影武者の上に、折り重なるようにして男は倒れる。ちぇっ。総大将取れば私の勝ちだと思ったのに、影武者か。


「あーあ。負けた」


仙蔵はやっぱ強いな。拗ねたような、平和な声色で獣はそうぼやいた。それが最後の言葉になった。見えない目で見上げた空は、ともに学んだあの場所で、団子を食べながら屋根の向こうに仰いだ青と同じ色だ。死んでいるはずの立花仙蔵が、己の下でこらえ切れないように笑ったような気がして、確かめようと思ったまま、七松小平太は事切れる。




仲良く喧嘩しな