お前、私が死んだら食えよ。


仙蔵が突拍子もないのはいつものことだったが、そのときの台詞は突拍子もないを通り越して意味がわからないものだったので、文次郎は怪訝そうに眉を寄せて教科書の字面を追っていた視線を上げた。目が合うと仙蔵は秀麗な眉目を綺麗にカーブさせてにっこりと微笑む。相好を崩すでも口元を緩ませるでもない、かっちりと型に嵌めたような隙のない笑い方だった。仙蔵の腰掛けた文机の向こうの、格子越しに見える、満開の曼珠沙華が空恐ろしいほどよく似合った。華やかで蠱惑的で毒を孕んでいる。文次郎は諦観したように教科書を閉じて、なんだよそれは、と聞き返した。仙蔵は小首を傾げてそのままだよと続ける。


「私が死んだら私を食えよ、と言っている」


文次郎は暫くその台詞を反芻してから、頭巾をはずした頭をがしがしと掻いて、「いや、ねえだろ」と応えた。色々と突っ込みどころの多すぎる命令だったが、なんでそんなこと考えてるのかとか、人間を食うと畜生道に落ちるとか、普通に気持ち悪いとか、そもそも卒業後の進路は別だろうからそう巧く死体を手に入れられるはずがないとか、そんなことが浮かんでくるより前に、前提がおかしいと彼は思った。初っ端からの全否定に明らかにむっとした仙蔵に向かって、彼は少し慌てて言葉を重ねる。


「お前が俺より先に死ぬかよ」


仙蔵が驚く番だった。彼はきょとんとした顔をして暫く文次郎を見つめていたが、それから不意に指を口元に当てて、笑った。その笑いは作ったものではなく、思わず笑ってしまったという感じのふわりとしたものだったので、文次郎は怪訝に思いながらも少しほっとする。何しろ怒らせると後が怖い。くっくっくと喉を震わせながら、仙蔵は壁に背中を凭れかけさせる。それから視線を、開きっぱなしの障子の向こうへと投げた。縁側の磨き上げられた竹の床板には伊作が踏み抜いた穴が開いていて、そのあたりを特に目的もなく見つめる。つくづく物憂げな仕草の似合う野郎だなと文次郎は二重の意味で苦く思った。文次郎は非常に優秀で成績が良かったし、教師からの覚えも目出度く、同級生からの信任も厚かった。女にもそこそこもてた。忍術学園一忍者していると言われた。しかしそれも仙蔵を別にしての話だろう、と彼は考えていた。文次郎はいつも次席である。仙蔵はほとんどの学科の試験で主席だった。教師には覚え目出度いどころか将来を嘱望されていると言ってよかったし、同級生からは信頼を超えて心酔すらされているようなところがあった。町を歩けば必ずかまびすしい女たちに声を掛けられた。文次郎が10の修練で作り上げたものよりよいものを、彼はその半分の努力でつくれるようだった。天賦の才とはこういうものかと文次郎は彼を見て知った。


うらやんだことがないといえば嘘になろう。しかし劣等感より先に尊敬の念が出る。更に言えばそれは尊敬よりも愛情である。どういうことかと思うけれどそういうことなのだからしかたない。小平太や留三郎に対するような激しい闘争心が、仙蔵に対してはどうしても沸かない。隣に並ぶつもりではいるが、越えたいとは思わない。競うことに時間をかけるよりは甘やかしてやりたい。惚れてるのだろうと、文次郎は思う。それもありとあらゆる意味で。そこまで考えて、文次郎は頭を振った。照れたのだ。そうしてやはり、仙蔵が先に死ぬということが、益々ありえないように思えた。それは才能があるとか運があるとか、それも勿論そうなのだが、それ以前に、仙蔵が自分に負けるはずがない、たとえ寿命の長さだろうと、という殆ど思い込みみたいな単純な理由であった。


「・・・・いや、私が先だろうな」


そんな文次郎の考えを遮るように仙蔵は床板の穴を見つめたまま呟いた。絶対に、と続ける。


「何でだよ」
「そう決まってるからだよ、なあ、文次郎」
「お前が目測を誤るなんて珍しいじゃねえか」
「随分大きく出たな。そこまで言うなら賭けでもするか、どちらが先に逝くか」



仙蔵は文次郎をじいと見つめた。文次郎は少し逡巡して、――ここまで言い切っておいて、今更逃げられるわけもないのだけれど――小さく舌打ちしてから、乗った。


「俺が先だ」
「して、その心は?」
「有得ねえだろ、お前が俺に負けるなんざ」


死んでも言いたくない台詞だったが、そのときはなぜかするりと口をついて出た。そのかわり、言った瞬間多大な後悔に襲われた。走り出してしまいたいぐらいだった。そうしなかったのは、ひとえに仙蔵の顔がなかなか見ものだったからである。彼は暫く切れ長の目をまんまるに見開いて固まっていたが、やがて陶器のような白い頬に薄く朱を走らせて、もごもごと、忍術学園一忍者している男らしからぬ台詞だな、と呟いた。文次郎は気まずさ半分と愉快さが半分、ないまぜになって変な心地がした。なにやってんだろうか俺たちは、と多分お互い思っていた。


「つかこの賭け意味あんのか。死んだら何も払えねえだろ」


文次郎がぼやくのに、仙蔵はふと考えるような仕草をしてから、嫣然とした微笑を浮かべた。


「私が勝ったら、お前が私を食え。お前が勝ったら、私はお前を焼いて粉にして、酒と一緒に呑んでやろう」


お前を寺へはやらないよ。酔狂ここに極まれりである。それは俺に何の得になるんだよ、と文次郎は思った。六年の、彼と過ごした最後の秋のことだった。





さて目の前に小さな壷がある。夜明けの直前で室内は暗いが、行灯をつける気にもならない。陶器の形状がぼんやりと闇の中に浮かび上がる。壷には蓋がついていて、紙の札と糊で留められていた。札には見事な達筆で何か書いてあるが、読んでやろうとは思えなかった。壷は手のひらの大きさである。玄関の隅に置かれていたから恐らく仕事で留守の間に誰かがここに来てこれを置いていったのだろう。そんなことができる人間がこの世にあの男以外にいるとは思えなかったが、これがあるということは、多分この家は自分が思っているより万全ではないのだ。近いうちに引き払おうと考えながら、やがて夜が明けるのを、呆としたままで待っていた。執行猶予のようだった。夜が明けずとも中身の検討はついている。ただ知りたくないだけだ。考えてみれば、と思う。賭けにのった時点で全てが決まっていたのだ。彼が自分に負けるなんてことがあるはずがなかったのだから。陶器のふたのつるりとした感触が指の腹を撫でた。雨戸の隙間から黄色い日が差してきて暗闇になれた目に痛い。壷歯は白磁で、そういえばあいつの肌はこんな色だったなと思う。しかし色は似てるが感触はさっぱりだ、意外と体温が高かったのだ、あれは。触るといつも想定外に熱かった。


文次郎は、壷の封を読まずに破って蓋を開けた。板張りの床に蓋を置くと思ったより高い音がする。心臓は不思議なほど平静だった。壷中には白い砂利のような、粉のようなものが物が入っていた。それは忍が特殊な方法を使って焼いた死体の骨であった。違いなかった。文次郎も同じやりかたをしたことがある。本当にこういうふうになるのかと、初めてみたときはいたく感心したものだが、いやはや。仙蔵の抜かりなさには恐れ入る、と文次郎は思う。干菓子と同じ大きさで持ってこさせるとは、口に入れないわけにいかないだろうが。彼は立ち上がり、厨から酒を出して、また壷の前に座った。あまり上等の酒ではないが、仙蔵は意外と質より量を選ぶきらいがあったので、文句は言わないだろう。


ひとかけらつまんで口に入れた。からからに乾いて硬かった。少し塩気がある気がした。口の中でしばらく転がして、奥歯で噛むと、それは意外とあっけなく砕けて喉の奥に落ちる。随分軽くなったもんだな、と文次郎は思った。腹の上に乗せたこともあるのに、思い出すのは五年の夏ごろ、お前は目が利くから箪笥の下に落ちた櫛を探してくれと頼まれて、床にはいつくばった瞬間、背中を踏み台替わりにされたことだった。はじめから箪笥の上の扇子をとるつもりだったのである。無論腹が立ったが、それよりも、あんなに華奢で、風が吹けば折れそうな体が、思いがけないほど重かったことに驚いたのを、昨日のことのように覚えている。細かったけれど、中身の詰まった身体だった。しなやかで、力強く、バランスが良かった。一度だって、かなわなかった。かなわなくても、よかった。しかしだけど、これだけは勝つ気でいたのに。あの秋の日、あんなことを言ったけれど、自分が死んでも焼いて粉にして酒で呑んでくれる人間がいないというのは、ひどくさびしいように思えた。








お前が死んでも寺へはやらぬ 焼いて粉にして酒で呑む