「 やめてください先輩、明日は朝から実習で     !」





ライラック、で、 刃物





薄く開かれた障子の向こうで床の軋む音がした。浮ぶ柔らかそうなシルエットを七松は知っていて反射的に障子を閉めようと手を伸ばしたが間に合わない。たきやしゃまる、と明瞭と曖昧の丁度中間を取ったような淀みの無い調子で名前を呼ばれて彼は弾かれたようにそれまで頑なに床板を見つめていた顔を上げた。形の良い目が潤んで、膝立ちの足が立ち上がりたそうに震えている。そうされる前にと七松は滝夜叉丸の肩を掴もうとして手に力を込めたのだけれど、その手が肩に掛かる前に、彼は七松の予想に外れたことをした。立ち上がるか、まず自分を制止するかするだろうと思ったのに。浮かべた泣き出しそうな表情に似つかわしくない、ぴんと張られた声が空気の濃い部屋の中に木霊して、部屋の外の人間の名前を呼んだ。七松は後輩の肩を思い切り掴んだが、びくりと一度震えて、それだけだった。
「喜八郎か」
障子の向こうでふわふわと動いていた影はぴたりと停止した。滝夜叉丸が忍装束の袖で目元を急いで拭ったのを見て七松は胸中でちいさく舌打ちをする。後輩から手を放したのと殆ど同時に綾部喜八郎の端正な顔が障子の隙間からひょっこり覗いた。目が合うと「おやまあ」と別段驚いた様子もなく呟く。若しかしたら凄く驚いているのかもしれないが七松はそんなことがわかるほどこの後輩について知らない。普段立花が作法委員のことを話すのをなんとなく聞いている限り、見かけに反して本当に神経が太そうだが。
「お邪魔でしたか」
「そんなことはないぞ」
あからさまな嘘だ。そんな明らかなことを平気で尋ねる綾部も綾部だが。七松の台詞が指でなぞったみたいな酷い棒読みで、滝夜叉丸は得体の知れない恐怖で身体が竦んだ。恐る恐る七松の顔を覗くとがっつりと目が合った。口元は笑っているのに瞳だけぎらぎらと殺気立っていて、普通に怒られるよりもずっと恐ろしいと彼は思った。心臓を鷲掴みにされているような心持だ。
しかし綾部は特に臆した様子もなく握り締めていた鋤を威嚇するように肩に担ぎ直してふんと鼻を鳴らした。七松に負けず劣らずの棒読みが滝夜叉丸を益々焦らせる。お前のその有得ない度胸は一体何なのだ。
「そうですか。それはよかった」
なんだか紙書いて切り取ったような調子だ。元々そういうふうに聞こえる喋り方なのかもしれないがそれにしても大概良い度胸だと七松は奥歯を噛みしめながら思った。全くいいところ邪魔しやがって覚えてろよ、と思い切り睨んでやったのだが、七松のほうには一瞥もくれず、綾部はさっきの台詞よりもこころなしか優しげに滝夜叉丸を呼ぶ。
「課題を教えてくれるんでしょう」
「あ、ああ、そうだったな」
七松先輩、失礼します、と滝夜叉丸は早口に言って立ち上がった。七松の目をけして見ない。精一杯の虚勢だ。なんだ本当に厭だったのか、と七松は思った。今更だが。慌てて敷居を跨ぐ後輩に返事も引きとめもしないで唯つまらなそうに唇を尖らせる。舌打ちが聞こえた。襖の閉まる直前、初めと同じように隙間から顔を覗かせた綾部が大きな目を半眼にして七松を見据える。
「明日は実習なので勘弁してやってください」
「滝と同じことをいうんだな」
「友人ですから」
つながっているのですよ。



「・・・・滝夜叉丸って、可愛いんだなあ。」
ひとりきりになった部屋で、七松はひとりごちる。というか、なんだあの顔と性格のずれが激しすぎる、可愛くない四年生は。くそったれ穴掘り小僧、と同級生が彼を呼んでいたことを思い出した。確かにくそったれだと思った。